2017年10月3日火曜日

色盲

以前書いたかもしれないが,ナカムラは色盲である。いまは色盲と色弱の区別はないらしいが,その区分でいうと色盲で,つまり色弱より偉くて,より色がわからんという状態である。で,先日,友人に子供がうまれたというので,写真のようなプレゼントを送った。で,ナカムラは白かと思っていたら,実はピンクだそうで,赤ちゃんは男の子だったのでピンクはちょっとね,という次第。友人は気のいいやつなので,ピンクでもこだわらないと言ってくれたが,ちとまずかったかな。




ということで,色盲って実はそこういうときに不便だよ,という記事を書こうと思ってネットを調べみたのだが,たとえば「色盲+こう見える」とかで検索すると,いろいろ比較画像がでてくる。たとえばここでならべられてる画像は,ナカムラには全く同じにみえる(45番以外は)。寿司がまずそうとかコメントがあるが,子供のときからこの色に見える美味しい寿司をたべてるので,とっても美味しそうに見えます。

で,さらに調べると,こういうページをみつけて,だいたい言いたいことはに書いてあるではないか。抵抗のカラーコードがわからなくてテスターを使ったところまで同じ。ということでリンクさせていただいて,いっちょあがり。ちなみに焼き肉はほぼ生でもたべるので問題ありません。

…… というのも手抜きなので,ひとつ,前から思ってることを。色盲の友達(わりといる)と色盲談義になると,「千円と五千円ってみわけつかないよね」とかでもりあがるんだが,子供の頃,色盲だったからいじめられたという話も結構きく。しかし,ナカムラは色盲関連で悪意ある言葉をうけた記憶がほとんどない。

これはいい友達に恵まれたなあ,と思っていたのだが,ひょっとしたらいろいろ嫌味をいわれたがニブくて気が付かなかっただけかもしれん。まあそれはそれで幸せだ。しかし最近,思い当たるのは,よく身の回りのものを指さされて「じゃ,これは何色にみえる?」といわれたり,「色盲って赤は赤にみえるの?」とかきかれるのに答えるのが面倒くさかったことはある。

これは,悪意がなくても,ひとによっては不愉快ではないかなあ。たとえば,足が悪い人に「足が悪いと,どんなふうに歩くの? ちょっと歩いてみて」とは普通言わないだろう。色盲は足と違って世間にあまり知られてないので,気づかずに純粋に好奇心からきくのかもしれなうが,きかれる側からすると悪意を感じる場合があるのかも知れない。

ということで,色盲に「どう見えるの?」ときくときは,相手との関係性とかを十分考慮してください。とくに,しつこく何回も「じゃ,これは何色?」とかきかれると,さすがにいやになります。

最期に,ひとつ。まだ色盲だと理科系の職業につくのは不利,というような話があるようですが,すくなくともナカムラのような物理系だとまったく問題ありません。抵抗のカラーコードはテスター使えばよろしい。ということで,色盲の若者もどんどん理科系に行こう!

2017年3月21日火曜日

Scrapboxで数式を

同業者(数理系研究者)のみなさんは,ちゃんとした論文での数式なら LaTeX やワープロの数式エディタを使って,数式表現の処理方法は確立していると思う。でも,ちょっとメールで議論したりするときや,ネット上の簡単な紹介ページに数式をいれたりするのは,いちいち PDF にして公開するのも面倒くさい,と思いませんか?

最近,かの増井さん(*)が ScrapBox という便利サービスを始めたので,ダメもとで「数式もなんとかして」とお願いしてみたら,@shokai さんが実装してくれた(もともと計画があったのでしょうか)。めちゃ便利。で,さっそく書いたページがこれ。まだ使い始めなので,全貌は見えてないけど紹介を。

  1. 多くの数理系研究者の間で標準仕様の LaTeX 書式を知っていれば簡単に数式がいれられる。
  2. 入力結果は段落ごとに整形してくれるので,コンパイルせずにすぐに数式が読めて,WYSISIG に近い操作感。
  3. 数式に関しては LaTeX のソースがそのまま残っているので,コピーペーストで LaTeX ファイルに移動すれば,そのまま本番の論文に使える。(そのうち sb2tex ってフィルタができるんじゃなかろか。)
  4. 同一ページを複数の人間で編集できるので,共同研究者などとネットを介して議論が容易。
とくに,下書きなどせずに数式を書きながら考える派の人にとっては,2のすぐに数式が読めるのはとてもありがたい。自分はノート上で計算してだいたいあたりをつけておいて,WYSIWYG的エディタ(LyX使ってます)で計算しながら文章を仕上げていくスタイルなので, emacs なんかで LaTeX のソースコードを書くのは苦手だった。だから,出先で自分の環境が使えない場合などは泣く泣くソースコードを編集していたのだが, ScrapBox はブラウザさえあれば使えるのでとっても便利。

数式以外の便利な点はネット上にいろいろレポートあるので探してみてください。同業者のみなさん,是非おためしあれ! 





(*)みなさんが毎日お世話になっている携帯の予測変換をはじめた(チャーリー・クリスチャンがエレキギターをはじめたという意味で)のが増井さんです。実は大学時代の先輩で,いっしょにバンドやってました。

2017年3月1日水曜日

エントロピック重力と角運動量温度

物理関係の話題なので,興味のないひとはすみません。

最近、科学ニュースでエントロピック重力理論なるものを目にしたことがありませんか? たとえば、この記事とかこの記事とか。こういうのを読むと、なにか画期的な新理論が提案されて物理学の歴史が変わるんじゃないか、みたいな印象をもつが、詳しい人(東北大学の堀田さん)の解説を読むと、まだアイデアのアイデアって段階で、「根拠の確立していない多数の仮説を沢山組み合わせて、観測と比べられる量を同定しているだけ」というそうだ。

で、ちょっと興味があったので原論文を読んでみたのだが,やっぱり“???”って感じ。堀田さんに twitter で少し教えてもらったのだが、疑問は深まるばかりで、これって結構ヤバいんじゃなかろうか、と思った。元論文では,一つ質点からの球対称の重力がある場合を考えて,球面上での温度(ってなんの温度か釈然としないという問題もあるけど)から逆自乗則を出してるけど,ふたつ離れた質点があった場合の間の点でのは温度はどうなるの?

などなど,いろいろと疑問ありまくりで,批判の論文など出てるようですが,ここではそれはおいといて,元論文でも使われている Unruh 効果の温度が加速度に比例するという式 kBT = ha/c (元論文の (3.8) 式,堀田さんの解説の (1)式)について思ったことを。

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堀田さんの別のページの解説にもあるが,重力(あるいは慣性力)がある場合の熱平衡状態は,相対論効果を考えると場所によって温度が違う。ザクッというと,相対論では「質量=エネルギー」なので,エネルギーにも重力がはたらいて“下の方にたまる”から,普通に温度を計ると下のほうが熱くなる。同様に回転する円盤は遠心力で中心より縁のほうが熱くなる。

でも,ちょっとこれは気持ち悪くないですか? 熱平衡というからには,その状態は少数の熱力学的変数で一意に決まってほしいわけだが,連続分布する温度,つまり無限個の実数で熱力学的状態を指定するのは,おさまりが悪い。実は重力や加速がある場合でも,熱力学的状態を指定するのに連続分布を決める必要はなく,分布のパターンが少数の数で与えられる熱力学的外部条件で一意に決まることが知られている。

では,相対論効果を考えて局所的な温度が場所によって変わる場合も,大域的な温度みたいな熱力学変数をひとつ導入して,状態を指定できないだろうか? 数年前からさかんに(*)研究されている角運動量温度というものを使えば,これはできる(はずだっ)。

考えてみれば,熱統計力学でエネルギーに対応して温度を導入したとき,本質的に必要なエネルギーの性質というのは,それが保存量であるということである。ということはエネルギーの他の保存量に対応して温度が存在してもいいわけだ。実際,保存量である空間3方向の3つの運動量に対応して温度が存在し,その逆数がエネルギーに対応する温度の逆数(逆温度)と組んで4ベクトルをなすという理論は,相対論熱力学業界というマイナー業界では,よく知られている(**)。

そこでナカムラは考えた。並進の対称性からくるエネルギー・運動量の4つの成分に対応してそれぞれ温度が定義できるのなら,回転の対称性からくる角運動量にも温度があるのではなかろうか。で,角運動量温度を考えると,非相対論的な場合はあまり面白くないのだが,相対論的な時空4次元ではいろいろ非自明なことがでてくる。

3次元に住むわれわれにとって,回転といえば回転軸を指定すれば方向が決まるが,実はこれは3次元だと平面に垂直な方向がひとつしかないからである。たとえば「xy平面での回転」は「z軸まわりの回転」と同じことだ。しかし4次元だと xy面に垂直な方向は z と,もうひとつ(4次元時空の場合は時間 t 方向)あるので,軸ではなくて回転面を指定しないと,つまり2つの座標方向を決めないと,回転方向は決まらない。

そこで (t, z, y, z) という相対論的時空座標を考えると,xy, yz, zx の3つの他に,tx, ty, tz の面内での回転が考えられるのであるが,このような時間を含む面内の角速度一定の運動は実は等加速度運動になる。ローレンツ変換が時空の回転であることを考えると,一定の角速度で回転するというのは,連続的にローレンツ変換をし続けるということに対応するので,これは納得できる。

で,等加速度運動をしている系(リンドラー座標系という)にのってみると,4次元遠心力として慣性力がはたらいている。この効果として“回転の外側(加速と反対の方向)にエネルギーがたまる”ので,外側にいくほど熱いということになる。そして,このときの熱平衡を特徴づける保存量は,時空回転運動(=等加速度運動)で保存される4次元角運動量だと考えられる。その角運動量に対応して温度が決まるわけであるが,だとすると,この温度は場所の関数ではなく,大域的に定義されたひとつの定数であり,角運動量と同じ次元をもつはずである。

ここでやっと Unruh 効果に戻るわけだが,この効果は Minkowski 座標系でみた量子真空状態を,リンドラー座標系でみると熱輻射に対応するスペクトルがみえるというもの(詳しくは堀田さんの解説参照)である。この温度が上でのべた  kBT = ha/c  で与えられるというのだが,リンドラー座標系では加速度 a が場所の関数なので(堀田解説参照),相対論的熱平衡の連続的に変化する局所的温度に対応する。では,大域的に角運動量温度を定義するとどうなるか? 角運動量と同じ次元をもつパラメターはここではプランク定数しかない(このへんはリンドラー系じゃないとちょっと事情が変わる)。そして,実際に分布から大域的な角運動量温度を決めるとプランク定数になる。

……んじゃないかと思うのですが,どうでしょう? そうすると,実は Unruh 効果の輻射スペクトルというのはプランク定数を温度として一意に決まるのではないかと思う。とすると,その式を援用してエントロピーから重力を導出するというエントロピック重力理論はさらにあやうくなってくるのではなかろうか,というのが元論文を読んで考えたことです。識者のみなさんのご教示をお願いします。

(*)実はナカムラひとりが論文を2つ書いただけで,世間的には全くみとめられてない……。Life is a bitch, sometimes. これが本当だとすると,回転する物体から出る黒体輻射は偏光にかたよりがある,という予言をしたのだけど,実験できないかな。

(**)これはナカムラだけでなく,本当に広く知られてます。で,これに関連してナカムラが書いた論文もそこそこ読まれてるみたい。wikipediaから引用されたりしてます。


参考文献

2016年1月14日木曜日

つるかめ、つるかめ。

 最近、twitterで東京姉妹という方をフォローしはじめたのだが、先日、鶴亀算の話題がながれてきた。東京姉妹さんくらいの歳だと、小学校では鶴亀算を習っていないらしいが、ナカムラの小学生時代には旅人算だの鶴亀算だのをやらされたもんだ。説教おじさんは習ったかな? 「鶴亀算を知らない女の子なんかとデートしたいと思うかね。ぼくは思うよ。」とか言いそう(一部の東京姉妹+説教おじさんファンしかわからなくてすみません)。

 で、そこにリンクされている結城さんのページをみると、はじめから連立方程式をつかって解いているが、ナカムラが小学校で教わったのは江戸時代の塵劫記あたり(さらにオリジナルは中国?)から伝わる東洋独自の解法である。こんな感じ。(結城さんのページは無料で読めるところしか見てないので,あとからでてくるのかも。この記事と同じ内容が有料部分に書いてあったらどうしよう。)「同時に家を出ない兄弟」的に「なんではじめから亀の頭数をかぞえんのじゃ!」というツッコミはナシね。

 これらを読んで,塵劫記でも方程式でも,どちらもあまりかわらんやんけ、と思われるかもしれないが、塵劫記の解法に比べて連立方程式を使った解法はあきらかにすぐれている。どこがすぐれているかというと、抽象化されているという点である。方程式解法は、まず、現実の事象 —— 鶴と亀の足の数と頭数 —— を x と y という変数に抽象化する。そして、亀が足が4本で鶴が2本という事実を数式であらわす。そうしておくと、あとは x, y が亀だったか鶴だったかはわすれて、機械的に数式操作をすれば問題がとける。そして答えが出たら x が亀、 y が鶴ということを思い出して現実にひきもどせばよい。

それに対して塵劫記解法ははじめからおわりまで、亀の足と鶴の足にこだわって、いま自分が計算している数がなにをあらわすかを常に意識して考る必要がある。これには問題ごとに違う考察をしなければいけないので、結構頭を使う。たとえば旅人算になると鶴亀算とちがう戦略を考えねばならない。それに対して方程式解法なら、はじめの現実問題 → 数式のところだけしっかりやっておけば、あとは機械的な作業で答えが得られる。
 え? 方程式の計算って中学のころやらされたけど、かなり頭つかったよ、という向きもいるかもしれないが、実はこのような方程式の操作は単純作業であり、慣れれば機械的にできる(ナカムラはしょっちゅう間違うけど,それは別問題)。つまり「煩雑であるが難しくはない」というやつだ。たとえば自転車に乗るようなもので、はじめは大変だけれど、コツをつかめば頭を使う必要はなく、携帯で会話しながらでも —— いや携帯で会話しながらの自転車はあぶないのでやめてくださいね。それはともかく、こういう計算は人間の頭をつかわなくても、自動化してコンピューターで高速に解くことだってできる、自転車じゃなくて自動車でぶっとばすみたいなもんだ。

 逆に、それがなぜ利点なの? 鶴亀算だって簡単に解けるじゃん、という算数得意人もいるかもしれないが、方程式解法の優位性は問題が複雑になればあきらかである。たとえば鶴と亀だけじゃなくて、さらにトンボが加わって、頭の数と足の数と羽の数があたえられたとき、塵劫記的に解こうとおもったらかなり頭をしぼらなければならないだろう。しかし、方程式解法だと、もうひとつ変数 z をトンボのために用意して羽の数を 4z、足の数を 6z にするだけでよい。方程式をとくのはちょっと面倒になるが、単純作業の量が増えるだけで、頭はつかわなくてよい。自転車で走る距離が増えるみたいなもんだ。

 ここで、ネットで見つけた、ちょっとおもしろい例をひとつあげよう。抽象化による方程式解法のありがたさがよくわかると思う。ふつうの算術でなく、論理命題の抽象化の例である。実はわれわれのよく知ってる 5 とか 7 とか x とかをかけたりわったりするという操作だけでなく、数学的にきちっとした操作ならば、いろいろな場合に抽象化・簡単化できるのである。「数学的にきちっとした」というのは、だれがやっても常に同じ操作で同じ結果が(間違えさえしなければ)得られるという意味である。以下の問題を考えてみよう。

ある人物について、A、B、C の3人は、次のように証言した。
  A:「たしか、名前は、大場さんといい、年は、35歳」
  B:「たしか、名前は、小塚さんといい、年は、30歳」
  C:「たしか、名前は、大場さんではなく、年は、40歳」
3人とも、名前、年齢のどちらかは正しいことをいい、どちらかは間違ったことを言っているものとする。さて、ある人物の名前と年齢は、なんであろうか?

これを普通に考えるのは、めちゃ難しい。「ここでA氏が名前をまちがえているとすると、年齢は35歳なのでB氏の言明の真偽は...」などと推論して正解にたどりつくことのできるのは、よほど頭脳明晰な選ばれた者だけだろう。もちろんナカムラには無理である。
 ところが、ブール代数という「数学的にきちっとした」手順をふむと、これは単純操作で答えが得られる。くわしくはこちらを見てほしい。ちゃんと理解しようと思うとなかなか大変だが,単純操作で正解がえられる原理は,ざっと読むだけで納得できると思う。

 ということで、数式というのは実は思考の大幅な節約につながるのである。一旦数式にしてしまうと,あとは中身を考えずに単純作業で答えが得られるのだ。「数式をみるだけで頭がいたくなる、数学大嫌い」と言っているひとは、実は数式になれていないだけで、同じ複雑さの問題にでくわしたときには、数式を使うほうがはるかに楽だということである。
 上にあげた大場+小塚さんの例に、さらに中村さんが名前の候補に加わったとしても、ブール代数の数式をつかえば大丈夫そうでしょ? 自転車に乗る練習は大変だが、乗れるようになったら、自転車のほうが歩くよりはるかに楽で、遠くまで行けるってことだ。

 いや、実は来年度から高校時代に数学が不得意だった学生さんを対象に「数学基礎」という授業をやるので、そのマクラになる話をさがしていたところに、東京姉妹+結城さんの鶴亀算がちょうどいいと気づいたわけなのである。説教おじさんはあまり関係ないけどカメオ出演(?)ありがとうございます。

最後に,授業をうける学生さん+その他みなさんのために,過去に書いたこの手の話題のリンク貼っときます。いつも「次回はいつになりますやら」で終わってるのがご愛嬌。




  • われわれは21世紀を生きているのか?
  • かけざん(2)
  • かけざん(1)
  • 国境の町の6人のガンマン
  • 2015年11月25日水曜日

    売りさばく


    Twitterに書こうと思ったけど,ちと長くなったのでこちらに。収入印紙が必要になって,郵便局以外でどこで売ってるかしらべてみたら「収入印紙売りさばき所」と書いてあった。なんかファンキーな名前だなあ,と思ってさらに調べると,「郵便切手類販売所等に関する法律」とか「郵便切手類販売所等に関する省令」の記述がことごとく「売りさばく」になっている,「売る」だけじゃだめなんだろうか?

    さらに法律・省令を詳細に読んでみると(ひま人だな)切手は「販売」で印紙は「売りさばく」と使い分けてるように見える。なにか深いわけがあるのだろうか? たとえば上にリンクした「郵便切手類販売所等に関する省令」の二条では以下のようになっている。
    法第二条及び第十条の規定による郵便切手類を販売し、及び印紙を売りさばく者(以下「郵便切手類販売者」という。)及び印紙の売りさばき人(以下「販売者等」と総称する。)の選定及び郵便切手類の販売又は印紙の売りさばきに関する業務の委託並びに法第十一条及び第十二条の規定による郵便切手類又は印紙の売さばきに関する契約の解除に関する事務は、(以下略)
    この文章は悪文の典型のようだが(法律関係だとこういうのがスタイル?)とくに前半が強力にわかりにくい。「印紙を売りさばく者及び印紙の売りさばき人」? で,解読してみると,多分,「“郵便切手類を販売し、及び印紙を売りさばく”者 及び “印紙の売りさばき人”」となるのであろうか,と思う(なんかコンピュータープログラムのスコープルール解析みたいなのが必要だな)。
    つまり,郵便切手を含む場合は「販売及び売りさばき」をするのでその行為をする「者」として記述している。それに対して印紙の場合は「売りさばく」に限定されるので「売りさばき人」と名詞化しているのではなかろうか? 

    うーむ。で,「売りさばく」で検索してみると,「売り捌く ・ 転売する ・ たたき売る ・ 投げ売りする ・ 売り飛ばす」が同義語だったりして,なんか「オラオラオラオラー!! はよ買ったらんかい,ワレ!」って売るイメージ。収入印紙にはそぐわない。さらに発見したのは「売りさばく」じゃなくて「売りさばき」で検索すると,なんと,印紙関係のページしか上位にヒットしない。われわれ平均的日本人が思っている「売りさばく」とは別の「売りさばき」が,実は総務省をバックとする一部勢力のあいだで浸透しているのか? だれか舞台裏知りませんか?

    2015年7月10日金曜日

    Fairytale Physics


    Farewell to Reality: How Fairytale Physics Betrays the Search for Scientific Truth (現実乖離:おとぎ話物理学の欺瞞 [ナカムラの仮のタイトル訳です] )という本を読んだ。ざっくり言うと,素粒子物理学は1970年代まで着実に進歩して世界の基本原理を探求し続けてきたが,そのころにいわゆる標準理論が完成してからは失速して,それ以降の主流になった超弦(スーパーストリング)理論は,仮定の上に仮定をかさねた末に実証実験可能な予言をひとつも出しえない「おとぎ話」になってしまった,なにやっとんじゃボケ(ざっくりしすぎだが),という内容だった。そして根拠の薄い仮説のくせに,さも確証があるように,空間が26次元だか11次元だかで,宇宙が10の500乗通り存在して、みたいな話を世間にPRするのはけしからん,と著者は憤慨していた。

    ナカムラは超弦理論にはこの著者ほど否定的ではないが,しかし困った状況にあるとは思う。すこし前(と思ったら結構前だった,歳をとると時間がたつのが速いね)に出版された「迷走する物理学」とか「ストリング理論は科学か」とかも同様の主旨であるではあるが,さらに時間がたっても検証可能な理論があらわれず,実験面ではLHCで超対称性に不利な結果がでつつあるなど,事態は悪化している。

    これは憂鬱な状況である。18世紀以来、物理の基本原理の探求で30年以上成果がなかったのは初めてではなかろうか? われわれは科学史上例をみない時代を経験しているのかもしれない。物理学の年表をみても、1980年以降の項目の寂しさが目にしみる。自然界の究極理論を求めていた素粒子論の分野は、堂々たる物理学のフラッグシップから、メジャーでではあるがいくつかある重要分野のひとつに後退してしまったように感じる。そしてこのままCERNなどの実験施設で超弦理論に否定的な結果が少しずつ積み重なっていくと、素粒子理論という分野が徐々にメジャーですらない物理学の一分野になってしまうという可能性は否定できない。

    もちろん,いま超弦理論をやっている専門家の多くはそう簡単にはあきらめられないだろうから,最後まで可能性をもとめて研究をつづけるだろう。しかし,そういう世代が引退していくと,新しい人材の補給がだんだん先細りになっていくのではなかろうか。自分がいま大学を出たばかりで,あふれんばかりの自信と才能をもっていて,大学院はどの研究室に行こうか,という状況を想像しよう。ひょっとしたら自分の研究者人生をすべてつきこんで,結局なんの結果もでませんでした,という可能性があるのを承知で超弦理論にとびこむのは,かなり覚悟がいる。そして,人生を棒にふってしまう可能性は年々増していっているように思える。

    しかし,超弦理論が実は壮大なはずれくじで、別の新理論であっさり解決しました,超弦理論に人生かけたみなさんはご苦労様、it was nice, but now it's gone というのは悲しいシナリオだが、でも,いちばん憂鬱なものではないと思う。いちばん困るのは、実は超弦理論は正解で,そっち方面にしかばね累々の消耗戦をしつづければ最終的に真理にたどりつけたのに、そこに行くまでにひろがる砂漠のあまりの不毛さに,砂漠の向こうに約束の地があることを知らないままで終わる、ということじゃなかろうか。そして、物理学の究極の真理を知ることなく人類がほろびていくというシナリオは悲しい。これからどうなるんでしょうね。

    2015年6月23日火曜日

    浜松楽器博物館のsystem700

    実はナカムラは今学期,浜松にある静岡文化芸術大学で非常勤の授業をやらせてもらっている。なかなか素敵な大学で,学生さんの雰囲気もいいのだが,ひとつ後悔していることがある。それは,授業の日を月曜日に設定してしまったことで,アナログもハーミットドルフィンも月曜休みなんですね。さらに,音楽好きにとって浜松といえば楽器博物館なのだが,これも月曜休み。

    なので,ずっと行く機会がなかったのだが,先週末から東京→豊田市→浜松とめぐる旅にでて,日曜は浜松泊だったので,ついに行ってきました。噂にはきいていたが,迫力ある展示でめちゃよかった。



    世界各国の民族楽器や,いま使われているバイオリンだとかサックスだとかの祖先の展示があって面白かったのだが,電子楽器コーナーに思わず涙ものの展示があった。ローランドシステム700シンセサイザー。


    なにを隠そうナカムラはまだ紅顔の美少年の高校生だったころ,このマシンを使っていたのだ。いや,これはちょっと誇張で,もちろん当時数百万円もするシンセサイザーを買えるはずもないのだが,ローランドのショールームに入りびたってさわらせてもらっていた。

    当時,プログレッシブロックが好きで,理科系の少年だったらかなりの確率でシンセサイザーにハマるのだが,もちろんあこがれはキースエマーソンのモーグIII(当時はムーグと言った)だ。しかしこれは数千万もする雲の上のさらに上の存在。ところが1975年にローランドが同様のマシンを数百万円で発売開始して,これも雲の上にはちがいないのだが,いわば低層雲の上で,ショールームでは実際にさわらせてもらうことができた。

    少年ナカムラは通いましたね。まずフロントパネルが写ったA0の大判ポスターをもらってきて部屋に貼り,夜な夜なながめてVCOやらVCFのツマミの配置と使い方をおぼえて,それから阪神電車にのって大阪まで行って実物で音をだしてみるのである。一度いくと二時間ぐらいはねばっていた。

    そんなもんで楽器博物館でひさしぶりに実物をみたとき(「お手をふれないでください」だったのでさわれはしなかった),ひとつひとつのツマミやスイッチの使い方をまだおぼえていた。さらにはアナログシーケンサー(写真の中央上部の部分)をつかってそのとき作った簡単なベースラインまで思い出した。いやー,いいもの見せてもらいました。


    オマケにほかの展示の写真も。これ,トランペットらしいんだがどうなってるのだろう?



    あと,おなじところにあった古いトロンボーンのベルの竜がマヌケ顔でかわゆい。



    昔のサックスってキー少なかったのね。



    ということで,音楽好きのみなさんは浜松に行ったらぜひ楽器博物館へ。あ,書き忘れたけど,さすがにピアノのコーナーは充実してました。惜しむらくは電子楽器コーナーにミニモーグとクラビネットが欲しかった。モーグIIIは無理としても。


    2015年5月1日金曜日

    We haven't have such a spirit here since 1985.

    ご無沙汰です。

    ナカムラには音楽について以前から強く支持する説があって,それは「名曲はほとんどすべて1980中頃以前につくられた」というものである。というか,しばらく忘れてたんだけど,この前,若い友達と晩飯たべながらこの話題になったので,思わず力説してしまった。

    いま,30歳以上の人が「いい曲だなあ」と聴くのは,どういう曲だろう? 多くの場合,自分が多感な10代から20代に流行っていた曲だったりするが,それ以外の,リアルタイムでは知らないが気に入っている曲があったとすると,たいてい1980年中頃以前の曲じゃないですか? ショパンとかベートーベンは言うまでもないが,ポップスでもビートルズの Let it be だったり,かぐや姫の神田川だったり,ビリー・ジョエルの Honesty だったりで,90年以降にできたのはほとんどないだろう。もしろん,最近でもいい曲はつくられてはいるんだけど,あ,あの曲ね,と誰もが知ってる,そして誰もがいいと思う曲ってほとんど1980年中頃以前の曲じゃないだろうか?

    これは,ひとつには1980年代以降は音楽が細分化してみんながいいと思うジャンルがなくなったというのもあるだろうが,ほかにも1980年代までに現在ある音楽のスタイルがほぼ出尽くしたというのもある気がする。ナカムラの高校時代にパンクロックとレゲエ(はじめは「レガエ」っていったんだよね)がでてきて,そのあと,80年代にラップとかヒップポップがヒットして,だけど,それ以降とくにメジャーなムーブメントはないと思う。(M-baseってどうなったんだと検索してみたら,日本語の解説はみあたらなかったが,スティーブコールマンがまだm-base.comというサイトで頑張ってた。)

    思えばナカムラあたりの世代が,「次はどんな音が聴けるのだろう?」と胸をときめかせ,乏しい小遣いを握って,レコード屋(当時)に通った最後ではなかろうか? ELPの「恐怖の頭脳改革」(この日本語タイトルなんとかしてくれ)とかウェーザーリポートの「8:30」とかの発売時は今でもよくおぼえている。しかし今,好きなアーティストが新譜を出したときいても,大体内容は想像できてしまうのではなかろうか。そう考えると, Bitches Brew とかをリアルタイム経験してるひと世代上ってうらやましいですね。でも,いまの若者はわれわれ世代のおじさんがうらやましいのかも知れない。いいだろ。


    2015年2月19日木曜日

    地球磁場は光子なのか?

    さて,また電磁気学の話題です。物理に興味のない人はあしからず(前野さんの宿題もまだだ,すみません)。

    ナカムラが学生のころからもっている諸々の疑問のひとつに「地球磁場は光子か?」というのがある。アインシュタインが提唱した光量子説から量子力学が発展して,プランク分布がどうの,というのは,この話題に興味のあるかたはとっくにご存知と思うので省略するが,量子電磁気学によると,いまわれわれが電磁場と思っているものは,実は量子化された光子という実体で説明される,ということになっている。

    そして,電磁場のうちの電場については,クーロン場の量子化がなにやら難しくて,仮想光子がどうのこうのという話になるのだが,磁場については全部光子でおっけ,というような雰囲気がある。雰囲気,と書いたのは,ナカムラの手元およびネット上でみた文献には,はっきりとそうとは書いてないのがほとんどだからだ。Wikipedia英語版のvirtual particleの項目には双極子磁場の磁力も仮想光子が運ぶと書いてあるが,本当かなあ。

    考えるに,地球磁場みたいな双極子磁場は,イメージとしてなんか粒子っぽくない。twitterでこの疑問を書いたら,地磁気の専門家からも,光子じゃない印象,という返信をいただいた。やっぱり現場の感覚としてはそんな気がする。

    そもそも時間変化していないので,光子一個分のエネルギーとされるhνはゼロなのに,地球磁場は厳然として巨大なエネルギーをもっている。hν→0の極限で粒子数が無限大になるから有限のエネルギーをもっているのだろうか,と学生のころは漠然と考えていたが,最近,電磁場の解析力学をいろいろと勉強しているうちに,やっぱり地球磁場は光子じゃないんじゃなかろうか,と考えるようになってきた。「光子じゃない」というのは,一個,二個と数えられる存在ではないという意味である。

    ところが,いわゆる調和振動子に分解するという計算をしてみると光子じゃないっぽいのだが,遅延ポテンシャルで考えてみると伝搬性のイメージになったりして,よくわからん,ということになった。で,ちょっと長くなるので次の記事に考えたことをまとめたのだが,ナカムラは量子力学,とくに場の量子論については門外漢なので,これを読まれた識者のご意見をうかがいたい。電場のクーロンポテンシャルと仮想光子についても,思うところがあるのだが,まだ頭の中が整理されてないので,それについてはのちほど。

    地球磁場は光子ではない?

    前の記事で書いた疑問の,自分なりに考えた内容です。味気ない論文調で失礼。識者のご教示をおねがいします。(数式はスマートフォン・タブレット版では見えません。「PC用のサイトをみる」などのオプションを選択してください。)

    ===========

    まず,古典場を考える。本稿では特に断らない限り,記号は習慣的な意味をもつ($A_{\mu}$:4元ポテンシャルなど)。また,単位系は適当にとって,$4\pi c$やら$\mu_{0}$やらがでてこないようにしてある。詳しい計算はいちばん下にある参考文献をみてください。

    以下ではローレンツゲージ$\partial_{\mu}A^{\mu}=0$を使う。電磁場の作用$I$ は
    \begin{align*}
    I & =\int d^{4}x\,\left(-\frac{1}{4}F_{\mu\nu}F^{\mu\nu}+A_{\mu}J^{\mu}\right)\nonumber \\
    \, & =\int d^{4}x\,\left(-\frac{1}{2}\partial_{\mu}A_{\nu}\partial^{\mu}A^{\nu}+\frac{1}{2}\partial_{\mu}A_{\nu}\partial^{\nu}A^{\mu}+A_{\mu}J^{\mu}\right)\,,
    \end{align*}
    で与えられる。部分積分により$\int d^{4}x\:\partial_{\mu}A_{\nu}\partial^{\nu}A^{\mu}=\int d^{4}x\:(\partial_{\mu}A^{\mu})^{2}$となるが,これはローレンツゲージの条件からゼロとなるので,ラグランジアン$L$は
    \begin{equation}
    L=\int d^{3}x\,\left(-\frac{1}{2}\partial_{\mu}A^{\nu}\partial^{\mu}A^{\nu}+A_{\mu}J^{\mu}\right)\,,\label{eq:lagrange}
    \end{equation}
    と書ける。

    ここで,この手の計算でよくやるように偏極単位ベクトル$\epsilon_{\lambda}^{\mu}(\mathbf{k})$を導入する。添字$\lambda=1,2$は波数ベクトル$\mathbf{k}$に対して「横方向」を$\lambda=3$は「縦方向」を意味し,$\lambda=0$は時間方向である。これを使って4元ポテンシャル$A_{\mu}$および電流$J^{\mu}$を以下のように展開する。
    \begin{align*}
    A_{\mu}(t,\mathbf{x}) & =\int\frac{dk^{3}}{(2\pi)^{3}}\sum_{\lambda=0}^{3}\epsilon_{\mu\lambda}(\mathbf{k})c_{\lambda}(t;\mathbf{k})e^{ic\mathbf{k}\mathbf{x}}\,,\\
    J^{\mu}(t,\mathbf{x}) & =\int\frac{dk^{3}}{(2\pi)^{3}}\sum_{\lambda=0}^{3}\epsilon_{\lambda}^{\mu}(\mathbf{k})\chi_{\lambda}(t;\mathbf{k})e^{ic\mathbf{k}\mathbf{x}}\,.
    \end{align*}
    この展開では,普通やるように生成消滅演算子をつかわずに,ナマのフーリエ成分$c_{\lambda}(t;\mathbf{k})$を使い,時間$t$への依存は変換せずにそのままにしてある。この変換をもとに(\ref{eq:lagrange})のラグランジアンからハミルトニアンを計算すると
    \[
    H=\frac{1}{2}\sum_{\mathbf{k}}\left[-\left(\dot{c}_{0}^{2}+k^{2}c_{0}^{2}-2c_{0}\chi_{0}\right)+\sum_{i=1}^{3}\left(\dot{c}_{i}^{2}+k^{2}c_{i}^{2}-2c_{i}\chi_{i}\right)\right]\,,
    \]
    となる。ただし,$\partial c_{\mu}/\partial t=\dot{c}_{\mu}$と書いた。

    以下では,ソースタームが時間によらないとしよう($\dot{\chi}=0$)。 新しい変数$\xi_i=c_i-\chi_i/k^{2}$を導入すると,横成分($i=1,2$)に対応するハミルトニアンは以下のように書ける。
    \[
    H_{i}=\frac{1}{2}\sum_{\mathbf{k}}\left(\dot{\xi}^{2}_{i}+k^{2}\xi_{i}^{2}+\frac{\chi_i^{2}}{k^{2}}\right)\,.
    \]
    括弧のなかの第3項は,定常電流がつくる,いわゆる「near field」の寄与で時間依存はない。この項が磁場成分しかもたないことは,直接計算から示すことができ,双極子磁場などの定常時場がこれに相当することがわかる。このハミルトニアンから,力学変数$\xi_i$は$c_i$のゼロ点を$\chi_i/k^{2}$だけ移動した調和振動子であることがわかる。

    ここまでの話は古典場であったが,これを交換関係$[\dot{\xi_i},\xi_i]=i$(これは$[\dot{c_i},c_i]=i$と等価である)を使って量子化しよう。量子化の標準的手順によって,生成消滅演算子$\hat{a}_i^{(\pm)}=(2k)^{-1}(\dot{\xi_i}\pm i|\mathbf{k}|\xi_i)$を導入すると,モード$k$の粒子が$n_k$個ある状態$\left|n_{k}\right\rangle $の横成分のエネルギーは
    \[
    \hat{H}_{i}\left|n_{k}\right\rangle =\left[\omega\left(n_{k}+\frac{1}{2}\right)+\frac{\chi_i^{2}}{2 k^{2}}\right]\left|n_{k}\right\rangle \,,
    \]
    と計算できる($\omega=|\mathbf{k}|$と書いた)。

    これから,横成分の電磁場のエネルギーは$\omega(n_{k}+\frac{1}{2})$と$\chi_i^{2}/2 k^{2}$の2つの部分からなることがわかる。はじめの部分は光子で,これは間隔$\omega$の離散的な値をとる。この値が光子の数と比例すると解釈して一個,二個と数えることができるとするのが「量子」つまり量子化による粒子像である。二番目の部分は磁場のみからなる「near field」の寄与で,これは電流の値が連続的であれば連続的な値をとる。そういう意味でこの部分は「量子」ではない。

    (しかし,上式のように分解するのは,数学計算上の便法的な部分がある気もする。物理的実体としては遅延ポテンシャルみたいなものが適当だと思うが,その場合は光子の概念はどうなるのだろう?)

    参考文献
    ・量子場の理論入門(「いろぶつ」こと琉球大学前野さんの講義録)
    ・電磁場の量子化(「物理のページ」から)

    2015年1月20日火曜日

    分極ベクトルは必要か?

    さて,前回のページで電場Eと電束密度Dの関係についてちょっとふれたら,さっそく前野さんからtwitterでつっこみがあって(注)で,近日中にもっと書きます,と返事をしたら,まだ宿題があるとの指摘が帰ってきた。あたたたっ,そういえば,去年に解析力学について書いたときに,前野さんのコメントに返事するといいながら,ころっとわすれてました。

    実は前野さんにいただいたコメントに関してはナカムラの記述は間違いまくっており,しかしそれを正すうちに面白いことを見つけてそれを書かねば,などとやってるうちに時がすぎてしまいました。そして,さらに恐ろしいことに,そのとき考えた面白いことが,微妙に忘却の彼方にいってしまって,ああどうしよう,となっているのだが,とりあえずED問題について解説を書いたので今回はそれをご紹介します。ここを参考にMathJaxを使って数式を書いてるので,モバイル端末とかだと数式でないかも。

    ****

    教科書などで電場Eと電束密度Dの関係を説明するときに、ほとんどの場合分子分極をもちだして、電流なり電荷なりを分極部分とそれ以外にわけて、という手順をふむ。こういうのを読むと、分極とそれ以外という区別は物理的になにか本質をついたものであり、電束密度Dも物理的実体であるかのようにな気分になる。それに対して,いくつかの教科書(代表はファインマン物理)では電束密度Dというのは計算を簡単にする数学的な補助場で,本質的なものはEひとつであるという立場で説明してある。しかし,ファインマンでも分極ベクトルPというものは使っていて,これを分子分極から導出している。

    本当に分極ベクトルPというのは必要なのか? 実は分子分極とはまったく関係なくても分極電流というものを定義できる場合もある。たとえば(とかいいながら実はこの例しか知らないのだが)磁場中の無衝突プラズマを伝わる磁気流体波(MHD波)については、荷電粒子の磁場中の旋回運動から生じる電流のために、近似として媒質中のマックスウェル方程式と同じ形の方程式(磁場方向による非等方性はある)で記述することができ,アルフベン波という分散性のない電磁波がみちびかれる。この場合,分極電流はちゃんと存在するが,分極ベクトルPに対応する明確な物理的実体は存在しない。つまり分極ベクトルなしでも媒質中のマックスウェル方程式が書けるわけだ。

    以下では,電場Eから分極ベクトルPを使わずに電束密度Dを定義しよう。まず,ファインマンと同じく,物理的な基本量は電場Eのみという立場をとる。自然単位系を使って,cとか4πとかμ0とかがでてこないようにすると,真空中のマックスウェル方程式のDはEでおきかえられる。ディメンジョンがちがうと思われるかもしれないが,普遍的な物理定数として適当なディメンジョンをもった比例係数があると考えればいい(このへんについては,実はもうすこし詳しい説明が必要かも)。

    媒質の中を電磁波が伝搬しているような状況を考える。電磁波の電場が媒質の電荷に作用すると、その電荷に力がかかるので、なんらかの運動が生じる。で、この運動は電流になるわけだが、これをJと書こう。簡単のためこれ以外の電流はないとする。このJは電場Eが決まれば決まるわけだが、一般には過去の電場の値も影響したりするのでJ(E)のような単純な関数の形には書けない。

    しかし、特殊な場合として、Jが電場の微分だけの関数としてJ(dE/dt)のように近似できるときもあるかもしれない、というか実際によくあってそれが誘電体なのだが。さらに電場があまり強くないときは線形の近似ができたりするとラッキーで、その場合は比例定数χを使ってJ=χ(dE/dt)とかける。これをアンペールの式に入れると、
    $$
    \nabla\times\mathbf{H}=\mathbf{J}+\frac{\partial}{\partial t}\mathbf{E}=\frac{\partial}{\partial t}\left(\chi+1\right)\mathbf{E}
    $$
     となるが、ここで(χ+1)E=Dと書くと、Jを意識せずに真空中のマックスウェル方程式と同じような形になってすっきりする。以上の議論にPは使っていない。

    ここまではなぜJ=χ(dE/dt)と書けるかは問わずに、書けたらラッキー、ということだったが、そのへんにある誘電体のミクロな物理を調べてみると分子分極の場PからDが導出できて、Pにもそれなりに意味があるということになるわけだ。しかしPは一般的には必要ではなく,これに対応する物理的実態が存在しなくても、J=χ(dE/dt)と書けさえすれば、媒質中の電磁場方程式はマックスウェル方程式と同じ形に書くことができる。

    では、divDで与えられる真電荷とはなんだろうか? これも「もしJ=χ(dE/dt)と近似できればラッキー」という立場からすると、J=χ(dE/dt)と近似できなかったのこりの部分がつくる電荷と考えればいいと思う。分極電荷以外の自由に動ける電荷とか,マクロに平均するとどうこうとかいう定義は、実は定義でなく、近似できずにのこった部分を調べてみるとたまたまそうなっているというような性質だと思えば気が楽になる。

    ****

    …と愚考するのですが,どうでしょう? 磁場についてもdE/dtのかわりに∇×Bを使えば同じ議論ができると思います。

    (注)今回のタイトルを「ED問題」にするという誘惑にかろうじて勝った。引き返す勇気をほめて欲しい。

    2015年1月17日土曜日

    縦の平均と横の平均

    数理系のひとなら「ド・モアブルの公式」というのを名前くらいは知っていると思う(注1)。ド・モアブルというのはフランス生まれでイギリスで活動した数学者なのだが,ニュートンの友達だったそうな。かの有名なプリンキピアを書いたときにニュートンが原稿を彼に見せたところ,一晩で読んで「興奮のあまり死んでしまわなかったのは運が良かったとしかいいようがない」と感動したという逸話を読んだことがある。

    この話を読んだ時に心底うらやましいと思った。いま,自然科学分野で研究者をしているみなさん,興奮のあまり死んでしまいそうな研究にふれた経験ありますか? ナカムラは残念ながらそんな経験はない。せいぜい「ああ,面白いことを考えてるな」程度である。まあ,プリンキピアは,それで世界が変わるような出来事なので,それをはじめて読むような経験はおいそれとはないかもしれないが,それよりは小規模でも血湧き肉躍るような科学上の事件というものの目撃者(当事者なれたらもっといいが)になりたいものである。

    で,過去をふりかえって,一番興奮した経験というのを考えるに,それは自分の専門のプラズマ物理ではなく,のちに「電磁気学を考える」という本になる内容の,今井功先生のセミナーを聴いた時である。このときナカムラはまだ大学院生で,同じキャンパスでおこなわれる他分野のセミナーなどにちょくちょく顔を出していたのであるが,そんななかの流体力学研究室のセミナーにたまたま顔を出してこの話を聴いたのである。ちなみに今井先生は10年ほど前に亡くなられた(1973年にでた「流体力学」の後編,でませんでしたね)ので,現実にお目にかかったのはことときだけだ。

    なにに感動したかというと,電場・磁場があった場合のエネルギーと運動量を基本にすると,電磁気学のすべてが綺麗に導出されるという,普通の電磁気学とはまったく違った理論構成である。多分,神が電磁気学を設計なさったときはこう考えたに違いない,とそのときは思った。のちに相対論と微分形式を勉強して,ちょっと考えが修正されたが,基本的な評価はいまもかわってない。上述の本はもう絶版になって久しいが,もし,手に取る機会があったらぜひマックスウェル方程式を導出するところだけでも読んで欲しい。

    さらに感心したのは,電場Eと電束密度Dの関係である。これはだれしも電磁気学を学ぶときに頭を悩ませる問題で,電磁気学を頻繁に使う研究分野にいても,イマイチ納得していないという研究者もいるはずだ。いや,過去にはすくなくとも一人はいた。ナカムラである(注2)。

    今井電磁気学ではマックスウェル方程式を積分形で考える。するとEは線積分の対象であり,Dは面積分の対象なので,ミクロにごちゃごちゃした構造のあるEなりDなりを平均して,マクロでなめらかな値をだすときに,それぞれ線績分と面積分を使って平均してやらなくてはならない。今井電磁気学では,これを「縦の平均」,「横の平均」といって区別する。その平均の仕方の違いによって値は違ってきていいわけで,それがEとDの違いの本質なわけである。磁場Hと磁束密度Bの関係も同じだ。

    これは納得,というのでナカムラは気に入っていたわけだが,のちにアブラハム・ミンコフスキー論争というのを知って,この「縦・横の平均」の考え方を使って,これが解決できるに違いないと考えた。アブラハム・ミンコフスキー論争とは,媒質中の電磁場の運動量がE×HなのかD×Bなのか,という問題で,なんと驚くなかれ,論争発生後一世紀以上たった現在でも,まだ未解決問題とされている(もうとっくに解決してるという意見もある。ちなみに解説はこれ,英語だけど)。

    今井電磁気学の観点からこれをみると,運動量というのをマクロに定義するときの平均方法の違いが論争の原因で,そこを考慮してやれば…,考慮してやればその違いで…,あれ,うまくいかない! 実はナカムラは数年前,今井電磁気学の応用でこの一世紀来の難問を解決しちゃる,と意気込んで計算したのだが,どうしてもうまくいかなかった。

    結局,なにがおかしかったかというと,縦・横の平均の違いでEとDの違いを説明するという話自体が間違っていたのである。実際計算してみると,普通に性質のいいランダムさをもったミクロな構造を平均すれば,縦でも横でも,つまり線積分をつかっても面積分をつかっても,同じ値になるということで決着した。生前に今井先生に会ったことのある友人にきくと,本人もあとになってこのことには気づいていたらしい。

    げげ,だまされた,トマス・ヘンリー・ハックスレイの言う「つまらなく些細な事実によって葬り去られる美しい理論」というわけだが,それでも,ナカムラにとって今井電磁気学の魅力はいささかも色あせない。実は,ほかにも今井電磁気学の中には間違いがあって,一部ではトンデモ扱いする物理学者もいる。しかし,いくら間違いがあってもその考え方が奥深い理論というのは,チャラくて正しいものより,はるかに魅力的なものであろう。

    このページはtwitterで電磁気学の話題がでたときに,今井電磁気学にふれたのがきっかけで書いたのだが,そのときにナカムラが投稿したtweet(これ)を転載しておく。
    マイルス・デイビスがウエストコースト派のミュージシャンを評して「あいつらは演奏能力も音楽性もすばらしい。でもおれが気に入らないのは,あいつらが演奏中間違えないところだ。間違えないということは音楽をクリエイトしていないってことだ」と言ったそうな。今井電磁気学を読むとこれを思い出す。
    (注1)このページを書くために調べるまで,ナカムラが「ド・モルガンの法則」と混同しておったのは内緒だ。
    (注2)今は実は納得している考え方がある。次回,このblogに書く予定である。

    2015年1月13日火曜日

    Steppin' to the Bad Side

    あなたに,めちゃくちゃ好きな異性ができてしまって,むこうもまんざらでもない感じ,ところが相手にはすでに配偶者がいて,去年はやった「昼顔」のような状況になったとしよう。あるいはこの曲とか。で,密会をつづけるうちに,ある日,相手が「絶対ばれない方法があるんだけどあいつ(配偶者)を殺してくれない?」と言ったら,どうします?

    まあ,これはひとによりけり,あるいはどれくらい相手に入れこんでるかという状況にもよるだろうけど,どうしてもゆずれない自分の強烈な欲望があって,それが著しく道徳に反する場合,どうするかっていうのは難しい問題だと思う。死ぬほど愛していて,彼もしくは彼女なしの人生なんて生けるシカバネ同然というような場合はどうするだろう?

    いや,実は昨今の科学捏造疑惑に関連して,この記事を読んでこんなことを考えたのであるが,自分が生命科学分野の研究者の卵,あるいはカケダシの研究者で,研究者として生き残るためにどうしても捏造をせざるを得ない状況にあったらどうするだろう,と思った次第である。生命科学のような研究分野の魅力は抗いがたい(注)ものがあり,研究を一生続けることができるのと,それをあきらめてさほど好きでない全く別の仕事に就職するのは,人生の楽しさがまったくちがってくるのではないかと思う。

    実際,ナカムラは幸いにもそのような分野のひとつである物理の研究職こつくとができたが,そうでない人生を想像するとぞっとする。自分の好きな研究を自由にできるって,本当に幸せなことです。とくに過去をふりかえると結構あぶなくて,30過ぎて一時無職だったりしたことがあるから切実。もちろん,研究以外の人生だって,それなりに楽しいことはあるはずだが,それと研究を愛することはまた別問題。不倫はいかんということで,好きな異性とわかれてもそのうち立ち直れるというのと,その相手がめちゃくちゃ好きというのが別問題だというのと同じだ。

    幸いなことにナカムラの嗜好は物理の理論的な仕事だったので,捏造したくてもする余地がない。論文に計算が全部書いてあるので,だれでもあとを追って確かめられるのだ。そして確かめた結果,計算間違いしとるやんけ,というのはたまにあるが,いや,実は頻繁にあるが(涙),しかし,よこしまな心の入り込む余地はない。身の潔白を簡単に主張できるわけだ。よかった。

    ところが,もし,ひとりで実験していて,これがうまく行かないと業界で生き残ってはいけない,みたいな状況に追い込まれたらどうだろう。いや,「いかに不利でも私は悪魔の誘惑には負けない!」という個人の決断ができる場合はまだいいが,研究室のボスが水戸黄門か大江戸捜査網に出てくる悪代官みたいなやつで,「おぬしも,ここで生きていきたいなら,わかっておるじゃろうな?死してシカバネ拾う者なし,ふっふっふ」みたいに言外に捏造を指示してきたら?

    ノーと言えば確実に将来はないし,研究室の先輩も,そこを上手くやってボスの紹介でどこかの大学の研究職についてるし,とかいう場合はこの判断はなかなかキビしい。さらに,業界の常識である程度は「色をつける」のが暗黙の了解になっていて,どこまでグレーゾーンかわからなくなっているような状況だと,思わず手を染めてしまう誘惑は大きなものだろう。自分の正義に従って研究をはなれ,砂をかむような味気ない人生を送るか,steppin' to the bad sideで研究者になって禁断の甘い蜜をなめるか。あなたならどうします?

    自分だったらどうするんだろうなあ,と考えると,結論は「あー,そういう業界じゃなくてよかった!」

    (注)ところで,まったく本題と関係ないが,ナカムラはこの文章をかくまで「抗いがたい」というのを「あがらいがたい」と読んでいた。変換できないから気がついた。日々これ勉強ですね。

    2014年8月7日木曜日

    自慢

    最近,自転車にはまっていて,月に500km走ったぜ,とフェイスブックで自慢したら,ある人から「リア充自慢」といわれた。いや,自慢は自慢なんだけど,自転車でたくさん走ったくらいでリア充になれるなら,1000kmでも走っとるわい,と思ったのではあるが閑話休題。

    こういう他愛のない自慢というのはだいたい体力ありまっせ,とか,教養あるでしょう,みたいな能力をほこるものである。または金もってますよ,とか。これはなんとなく理解できて,なにかができるとかなにか持ってるということは,太古の昔から生き残りに有利なわけで,それを自慢するというメンタリティーが長い生存競争の歴史の中で生じてきたのは想像に難くない。

    しかし,不思議なのは,そういう能力とはぜんぜん関係ない自慢というのが存在することだ。ナカムラがいつも感じるのは「肩こり自慢」である。これは肩のこらないひとにはわかりにくいかもしれないが,とにかく肩をもんでもらって「うわー,こってますねえ」と言われると,なんとなく偉くなったような気になるのである。

    ナカムラは肩こり症なので,よくプロのマッサージをお願いするのだが,「力加減はどうですか?」と聞かれて「あ,結構こってるのでもっと強くおねがいします」というときのなんとなく誇らしげな自分の感情をいつも不思議に思う。で,マッサージ師が力のある若いお兄さんだったりすると,むこうも心なしか挑戦的になって「これでどうですか?」と強力に責めてきたりして,強すぎて痛いと思っても「あ,もうちょっとおてやわらかに」というのは,なぜかプライドが許さない。脂汗をながしながら「あうっ…,きもち,…,いいですっ…」などと答えるのだが,なんのために高いマッサージ料金をはらっているのかわからなくなってくる。

    友人にこの話をすると「それは,たくさん働いたから肩がこっているという,仕事自慢じゃなかろうか」と言うのであるが,仕事なんかぜんぜんしてなくても肩はこるし,ナカムラはたくさん仕事しました自慢は嫌いなので,それとはなにか違うと思う。病気自慢なんかに近いものがあるのだろうか。

    もうひとつ,ナカムラが感じる意味のわからん自慢意識は「めちゃ辛いカレーが好き」というのだ。これもなんの得にもならないのだが,「ココイチの4辛くらいは平気」と言った相手が「へー,俺は2辛でも無理っす」とか言おうものなら,なぜか勝ち誇った気分になる。考えるにこれは不思議な感情で,香辛料で辛い,いわゆるスパイシーなものは自慢の対象になるが,ほかの味覚,たとえば酸っぱさなんかについては,あまりそういうことはないのではなかろうか? 「レモン汁一気飲みしてやったぜ」とかいうのは自慢になりにくい気がする。

    ただ,この自慢的気分は個人差が大きいようで,上に書いたようなことが全く共感できないというひとも結構いるようだ。逆に,友人にこの話をしたときに,目の悪い彼は「低視力自慢ってのもあるな」と言ったが,ナカムラにはこれはあまりピンとこない。

    …と,ここまで書いて,ありゃ,ひょっとしてこの話題って以前書いたかも,と思ったのはtwitterで以下のようなやりとりがあったからなのだが,
    不安になって検索してみても,上位にはヒットしなかった。というわけで,そのうち記憶力なくなり自慢もするようになるのかなあ,などと思いながらこの記事も公開しよう。


    ところで,前々回,解析力学に関する記事を,これもいささか自慢気に書いたのだが,これに対してirobutuこと前野さんからいただいたコメントにまだ返答を書いていない。いや,実は考えだすと真に驚くべきアホな間違いがいろいろと見つかって,さらに間違いを正していくうちに面白い進展があって,という状況なので前野さん,もう少しまってください。


    2014年7月19日土曜日

    早稲田・小保方問題

    ナカムラはtwitterを使っているのだが,一昨日の昼過ぎからタイムラインが小保方博士号に対する早稲田の対応関連でわきかえって大変なことになっている。「小保方」+「早稲田」などのキーワードで検索してもらうとわんさかヒットするのだが,たとえばこんな感じである。

    実はナカムラは,このような話題をネットで扱うのは意図的に避けているところがあり,小保方疑惑が浮上した時から,twitterやfacebookなどでこの件ついてほとんど言及していないと思う。これは理由があって,つまり,当事者でもない者がネットやマスメディアの情報だけで悪者批判をするのがあまり好きではないからだ。しかし,今回の早稲田大学の対応については,科学というものを職業にしている以上,なんらかの意見表明をすべきだと考えてこれを書いている。つまり,自分も広い意味での当事者になると思うからだ.いつになく真面目タッチなのはそのためである。

    ナカムラのみた範囲で,ネット上で反応した科学関係者は,ほぼすべて「こりゃ全然ダメだ」というものだったが,「博士号の授与決定権は早稲田大学にあるのだから,どう決めようといいではないか」というようなごく少数の意見もあった。これはこれで正しい意見で,博士号についての決定は大学の権利であり,どう決めようと早稲田の勝手である。ただし,公的機関である大学がその権利を行使したからには,その結果について種々の論評をされるのは当然の帰結であり,それでタコ殴り状態の批判をあびるのなら甘んじて受けるべきである。つまり博士号剥奪をしないのも,それに対してタコ殴り批判をするのも,両方とも正当なことだと思う。

    というわけで,このページでタコ殴りの末席に連なるわけだが,自分が思うようなことはたいていどこかででていて,たとえば上でリンクしたページのtwitterの反応などをみていただきたい。あるいは検索すれば大量にヒットする。では,なぜわざわざこんなページを書いているかというと,「こりゃ全然ダメだ」という意見をもつものがここにも一人いるという表明である部分が大きい。つまり,上でのべたように博士号に関しての決定権は大学にあるが,その決定に対する反対意見がこんなにたくさんありますよ,というのは重要なことだと考えるからである。みんなもだまってないで意見表明しよう。このページのように個人blogで小数の読者しかいなくても,そういうページがたくさんできると多くのひとに広がると思います。

    ひとつふたつ補足しておくと,小保方氏本人より早稲田の対応のほうが,はるかに問題だと思う。科学といえども人のいとなみである以上,研究上不正を行うものを根絶するのは無理で,これは如何ともしようがないのかもしれない。「世に盗人のたねはつきまじ」である。問題はそれが発覚した時にちゃんと自浄作用がはたらくような体制になっているかどうかであろう。早稲田がなぜ博士号剥奪をしないかについては,いろいろと取り沙汰さてているが,とにかく,このままでは全くもってまずいと思う。

    もうひとつ,ナカムラが目にするネット上の意見の多くはいわゆる「コピペ」を問題にしていたが,それよりも科学的に虚偽の記述があることのほうが深刻ではなかろうか。たしかに剽窃は科学者倫理からすれば完全にアウトだが,事実でないことを論文にするほうがよっぽど罪が大きい。たとえば実験結果です,といって企業のウェブサイトからとった画像を載せていたというのが本当だとしたら,とんでもないことである。

    最後に大学業界以外のひとが誤解するといけないので書いておくと,大学というのは企業のように全体で統一された意思決定をするわけではなく,百貨店のような学科単位あるいは研究室単位の自営業の集まりみたいなものである。したがって,今回,早稲田のあるセクションが「全然ダメ」ということになったとしても,ほかにちゃんとしている早稲田の研究者のほうがはるかに多いということを理解してほしい。そして,早稲田のまともな研究者のみなさんは,あらゆるチャンネルを通じて不服申し立てをしてほしい.

    付記(7月21日)
    このページを公開後,早稲田大学で働いている知人から「大学としての決定はまだで,これから報告書を元に先進理工研究科の議論,必要なら全学の研究科長会の審議を経て,決定されると説明されています」と知らせていただいた.報告書をうけた上層部の英断を期待する.

    2014年7月7日月曜日

    変分法でオイラー・ラグランジュ方程式を出すときに端点の条件は必要か?

    また更新が滞ってしまった,ひさびさに書きます。先日,解析力学の計算をしていて,ちょっと疑問なことがあって,twitterに書いてみると,あっというまにその筋の碩学からコメントがたくさんついて,ナカムラが席をはずしている間にあっさり解決してしまったということがあった。で,せっかくだからとtogetterにまとめたら,これにもさらにコメントをもらったりして,なんというか便利な世の中になったものよのう,と思ったわけである。そのうちSNSを介した共同研究とかいうのが普通になったりするんじゃなかろうか。

    で,その内容だが「変分法でオイラー・ラグランジュ方程式を出すときに端点の条件は必要か?」(togetterへのリンク)というもので,たいてい(ナカムラがみた範囲ではすべて)の力学の教科書に書いてある,とある方程式を導出するときに使う条件が,実はなくてもいいのではないか,という疑問であった。碩学の意見の一致するところによれば,この条件は全体の理論構築には重要なのではあるが,その方程式の導出という部分では確かに必要ない,ということである。うーん,学生のころになんの疑問もなく受け入れていた話でも,よく考えてみればこういうことにも気がつくのであるなあ,大人になるとはこういうことかと感慨にひたった次第である。

    そして,さらに驚いたのは,このtogetterが結構多くの人に読まれているということである。今日(7月7日,七夕だ!関係ないけど)見たら3630viewもされている。びっくり。いや,たとえば相対性理論だとかブラックホールだとかの“人気アイテム”だといろんな人が興味をもってくれそうだが,解析力学などという地味な話題でもそれなりに読んでもらえるものだなあ,と思った。


    それとは別にいつもあるよなあと思ったのは,この経緯をtwitterなどで見た物理とは関係ない友人何人かから「なに言ってるかさっぱりわからん」という感想をもらったことである。これは,昔から物理関係の仕事内容を同業者以外にみられたときにくる定番の反応で,物理や数学で食っているひとのほとんどは経験したことがあるのではなかろうか? しかし,考えてみると不思議なことで,たとえば音楽の経験のない者がプロのピアニストにむかって「わたしにはさっぱり弾けません」とは普通言わないだろう。

    つまり,その道のプロがかなりの努力と年数をかさねて獲得した商売上の技について,普通なら素人がそれをできるかどうかなど考えないのだが,物理とか数学(ほかの学問でもあるのかな?)に関しては「さっぱりわからん」と言ってしまうわけである。こちとら長年の修行でやっと身につけたワザなんだから,簡単にわかってもらったら困るんだが,といつも思う。いや,別に不愉快に思っているわけじゃないのですが,どういう心理からそのような反応になるのか考えると面白い。たとえば医者の手術とか,棋士の将棋とか,いろいろなプロの技に対して内容によってリアクションの性質が違うとすれば,なぜなのか考えるのはなかなか興味深い話ではある。

    ということで,もとのtwiter上での議論にもどるが,この問題に気がついたのは変分法で停留値を求めるプロセスを多変数に拡張したらどうなるか,ということを考えていたからである。変分法を汎関数微分で書くと,ある点での変分はデルタ関数を含むようになるので,境界の値は関係なくなるのではなかろうか,と思った次第である。うーん,さっぱりわからん。

    *)この多変数の変分法に関してメモを書いたので,興味のある方は読んでコメントをいただければ嬉しいです。togetterの内容とは直接関係はありません。間違いなどあったらご教示のほどを。

    2014年4月1日火曜日

    4月論文

    今日は4月1日である。「エイプリルフールで嘘をついていいのは午前中だけ」という話をきいたが,これの根拠がイマイチわからなくて,この説自体エイプリルフールの嘘ではないか,という説がでているそうな。しかし,それもエイプリルフールの嘘では…(以下略)。

    ということで,エイプリルフールの話題の前に,例のSTAP細胞事件について。「STAPってなに?おいしいの?」という方は賢者ググレカスに相談してください。で、例の論文のデータがどうもあやしいという話をきいたときに,不思議に思ったひとも多いのではなかろうか? だって,超一流の科学雑誌に掲載されて「ノーベル賞級」とさわがれる内容だと,多くの研究者の目にとまって,だれかがすぐ追実験をして,同じ結果がでなければすぐにバレるのではなかろうかと思うわけだ。そういう論文をわざわざ発表するだろうか?

    以下は件の論文になにか不具合があるという前提のもとの,まったく無責任な推測なのだが,ナカムラの思うに主著者たちは実験結果がイマイチでも,本気で万能細胞ができた,あるいはこの路線で行くと近い将来できると考えていたのではなかろうか。きくところによると刺激によって万能細胞をつくるというアイデアは結構昔からあるらしく,理研のグループの専売特許ではないそうな。ということは,もし,うまく行きそうな手法をみつけたら,一刻もはやく「つば」をつけとかないと,他のやつに先をこされるかもしれない。研究業界は、それこそ「二番じゃなめなんですか」という世界で、評価されるには一番乗りが最重要なのだ。

    先日読んだ「4%の宇宙」という本では,宇宙加速膨張の証拠をつかんだグループのメンバーが,まだデータ数が少なくて確証がもてないのだが,それでも発表すべきかどうかで激論するシーンがある.ライバルグループに先をこされそうだったからだ。この本によると彼らはあきらかにノーベル賞を視野にいれて,しのぎをけずっていたのである(結局,ノーベル賞は両方のグループでわけた)。こういう状況は悩ましいだろうなあ.もし当りなら大当たりなわけだが,はずれならば大恥をかくことになる。いや今回のSTAP細胞事件は大恥ではすまないことになりそうだ。

    ということで,科学者たちは,はずれた場合の傷をなるべく少なくしようという工夫をするわけだが,これがエイプリルフールである,あ,話題がもどってきた。つまり,論文の投稿を4月1日にして,当たればそのまま大きな顔をして,はずれた場合は「いや,エイプリルフールでんがな,てへっ」とばっくれるのである。これはかなり分野によってちがうが,なかには「4月1日受理の論文は信頼度がひくい」というのが暗黙の了解という業界があったりする。そういう分野では,論文を読む時にまず受理日をチェックするそうな。

    そういう「4月論文」で有名なのが、1993年にノーベル賞を受賞したH.ロムッテロのいわゆる「ロムッテロ効果」の論文である。彼は「もう少し実験を続けて確証を得てから発表するべきだとわかっていたが,とりあえず先取権確保のためにレターペーパー(速報論文)を書き、編集者にたのんで受理日を4月1日にしてもらった」と受賞記念パーティーのスピーチで語っている。勝てば官軍ということですね。こういうノーベル賞までいった大発見はまれだが,ちょっと自信のない論文発表の時期がたまたま春だった場合,受理日を4月1日にするのは広くおこなわれているらしい。アメリカの一般向け科学雑誌Scientific American(日経サイエンスのネタ元)が2003年に主要科学論文誌1000誌を対象に行った調査によると,4月1日が受理日になっている論文の数は他の日に比べて約1.6倍多いという結果になったそうだ。

    というわけで賢明な読者諸氏はもう気づいたと思うが、この記事は4月1日の午前中に書かれている。まさか「ロムッテロ効果」とか信じたひとはいないでしょうね。

    2014年3月6日木曜日

    アンドロイドはグーグルグラスの夢をみるか?

    ということで(どういうことだ?),いま,一部で話題になっている人工知能学会の雑誌の表紙問題について。よく知らない方はリンク先が手短にまとまっているので,ご覧ください。前号の女性型アンドロイドの表紙についての賛否の意見はいろいろあって,女性差別はいかん,いや,これくらいでカリカリするな,いやいやなにを言っとる“これくらい”と潜在意識的に差別するのがけしからんのじゃ,いやいやいやアンドロイドが女性であるというだけで差別というあなたの心のなかに本当の差別があるのです,などと,まあ予想される展開になっている。ナカムラは,これについてはとくに強い意見はないが,ある程度公的な出版物なら不快に感じるひとがいる表現は避けたほうがいい,という程度のことは思う。あと,この件に限らず自分と違う意見のひとに対して,喧嘩腰になるのはよろしくないと思います。

    それに対して,「アンドロイドの視点から」として描かれた最新号の表紙についてはきわめて問題ありだと思う。その理由は女性差別とはまったく関係なく,アンドロイドが光を感知するデバイスから情報を得てるときに,この表紙のような絵柄はどの段階でも存在しないだろうということだ。だって,このような絵柄はたとえばグーグルグラスのような人間向けのヘッドマウントディスプレイでしか意味がない。視覚をはじめとする人間のインターフェースが極めて限られているため,しょうがなく必要な情報を視覚情報に重ねて表示しているだけなのである。

    以前にどっかで(って多分このblogしかないが)書いたが,映画“ターミネーター”でのシュワルツェネッガー扮するアンドロイドの視点から写したシーンはおかしい。画面の端のほうに「敵の数**名,死者数**名」みたいな文字が出てくるのだが,他のセンサーで感知した数値情報をわざわざビットマップで文字の図形に変えて視覚情報に重ねて書くなんてありえないだろう。いきなりCPUにインプットすればいいのだ。

    と考えると,もしアンドロイドならこの表紙の絵のような認識ではなく,… このような絵柄ではなく,… あれ,どうなるんだろう? 真面目に考えると空間図形を認識するというのはどういうことか,というなんやらわからん問題を深く掘り下げなければならなくなるような…。いま,あなたと私が見ている三角形が,あなたと私の脳の中で同様の表象であるという保証はどこにあるのか,というハイパーむつかしい問題とか,からんできそうだ。

    たとえばSFでよくあるように,「げげっ,他人の体に自分のこころが乗り移ってしまったっ!」なんてことになったときに,ちゃんと世界が認識できるのか,なんて疑問がでてくるのだが,これはできない可能性が大きいと思う。いや,だめでしょう,だって,たとえばある程度相談して互換性が有るように規格をつくったコンピューターの画像情報ですら,gifとかpngとかjpegとかいろいろあるのに,人間の場合は互換性をとるなんて考えてないのだから,目からの情報を人それぞれ違うように処理しているのではなかろうかと思われる。

    うーん,そんなところまで考えてるとすると,この表紙は人工知能的に奥深い。恐るべし人工知能学会。

    2014年2月4日火曜日

    断片的な,あまりに断片的な

    子供のころ,兵庫県に住んでいたので,親がときおり有馬温泉につれていってくれた。“有馬ヘルスセンター”という温泉施設に行ったときに,母に「おかあちゃん,“ヘルス”ってなに?」と聞くと「“健康”って意味よ」と教えてくれた。それからしばらくして,アメリカの暴走族“ヘルスエンジェルス”(Hell's Angels)の殺人事件を知って,その意味は“健康天使”なんだと思った。たぶん,高校あたりまで勘違いしていたと思う。とっても凶悪なやつらなのに,カワイイ名前だなあ,と思っていた。

    * * *

    もう何十年も前の学生のころ,乗っていた地下鉄が事故か何かで緊急停止して,駅と駅の間で5分ほど止まっていたことがある。窓の外をみると,車両の照明でコンクリートむき出しのトンネルの壁が見えた。暇なので見るともなしに眺めていると,水の染み出しかなにかで出来たシミがムンクの“叫び”のような顔に見えてきた。地下鉄が止まっているしばらくの間そいつをずっと見ていると,なんとなく愛着みたいなものがわいてきて,車両が動き始めたときに「もう会うことはないけど元気でな」みたいな感じの感情を持った。全くの偶然がいくつも重なって,地下鉄が止まっていたわずかの間だけ会えた奇妙な友人である。いまもあそこにいるのだろうか,ときおり思い出す。

    全くの偶然がないと絶対に会うことがなかった,というようなものに妙に憧れる。知らない土地に行って時間が余ると,まず一ケタの数字を決める。たとえば通り過ぎた車のナンバーだとか,たまたま目にした看板の数字だとかの最後の一ケタを使うことが多い。そして,地下鉄だとかバスだとかに乗って,その数だけ先に行った駅で降りる。あるいは車なら高速道路のその数だけ先の出口で降りる。で,あたりをうろうろするわけだが,偶然から生まれた驚きの出会いにいつも感動する … なんてうまいことはほぼなくて,退屈な街の退屈な日常しかないことがほとんどだ。でも,通り過ぎる歩行者だとか平凡な家並みとかが,全くの偶然がないと決して見ることのなかったものであり,そして今後二度と目にすることもないだろうと思うと,結構楽しい。


    * * *


    大学院の修士の頃,四畳半一間,トイレ共同風呂なしの下宿に住んでいた。向かいの部屋は高齢の女性がひとりで住んでいて,あまり親しくはなかったが廊下であったら挨拶などはしていた。なにをして暮らしているのかは知らなかったが,買い物などに出かける以外はほとんど部屋でテレビを見ていたと思う。彼女は人相を覚えているわけではなく「向かいの部屋に住むあんちゃん」ということで,こちらを個体認識しているみたいだった。道で歩いているときに挨拶しても怪訝な顔をされた。どうやら創価学会の会員だったらしく,都議選などが近づくと「これ,たくさん作りすぎてあまったから」と言ってテンプラなどをわけてくれて,それとなく公明党に投票するようにうながされた。テンプラをたべながら「もちろん,入れますよ」と言うと嬉しそうだった。もちろん,公明党には入れなかった。テンプラは味が薄くて,あまり美味しくなかった。


    * * *


    そのころ,女友達が「ただすくん,漢字で“あまくち”ってかいてみて,横書きで」というので書くと「なんか牛に見えない?」と言いながら,口の下に二本足を描いて“甘只”のようにした。
    それから“甘口”は牛にしか見えなくなった。


    * * *


    この写真のような,切った爪がとばないツメキリで爪を切っていたら,



    力を入れすぎてカバーがはずれて,この写真の状態のようになった。あいたたたたた,切った爪が飛びちりまくり。



    そこで思ったのは,この状況を写真を使わずに説明するととっても大変だなあ,今は携帯電話にカメラがついて便利な世の中になったものよ,ということ。いや,そもそもblogみたいな情報サービスがないころには,そばにいる人以外にはこんなことを言うこともできなかったわけである。しかし,このような,激しくどーでもいいことを読まされるほうは時間の無駄,という考えもできるかな。まあ,文明による生活の向上というものはそういうものだ(ナンカエラソウニマトメテル)。

    * * *

    もう数年前になるが,ナカムラの大学に集中講義に来てくれた社会学者の方と夕食をとる機会があった。とても面白い話がいくつもきけて,めちゃくちゃ楽しかったのだが,かなり酔っ払ったころに,お互いにお互いのblogの読者であることが判明した。なかなか新鮮な驚きであった。ということで,実は今回はその方の最近の文章をちょっとまねして書いてみました。やっぱり本家ほどうまくはいかないな。

    2014年1月19日日曜日

    パブロフの努力

    パブロフの犬というのをご存知だろうか? 外から見えない箱の中に犬をいれておいて、そのそばでベルをならすという実験をすると、犬がよだれを流したかどうかは箱をあけて犬を観測してみるまで決定されない、つまり、犬はよだれを流している状態と流していない状態との量子力学的重ね合わせの状態にあるという、量子論のパラドックスをカリカチュアライズした有名な思考実験である。あれ、ちょっとちがうな。まあ、正しくはネットで検索していただくとして、要するに条件反射である。

    この条件反射というやつは犬畜生(愛犬家のみなさん、ごめんなさい)だけに起こるのではなく、人間様にもよく見られる現象である。さらに、人間の場合はまんまとベルにだまされてよだれを流しているのに、それに気がついていないというヤカラが多いので始末に悪い。あれっ、犬も気づいてないかも。

    とにかく、その条件反射的なものの典型例が前に書いた拝金主義で、金=幸福とすりこまれてしまったために、実際に幸福になる要因がなくても金さえ手に入れば幸福を感じてしまうわけである。しかもパブロフの犬の場合はベルがなってヨダレを出しても、結局食べ物がなければいつかはだまされたことに気づくが、拝金主義の場合は信じ込むことが、そのまま幸福につながるから始末に悪い。

    いやしかし、金をしこたまためてハッピー♪というのは、まわりが迷惑なエグい金儲けをしないかぎり、実害はないかもしれない。もっと困るのはこの条件反射が個人レベルではなく、社会的な制度になってしまった場合だ。典型例が「努力=結果」という図式である。もともと努力というのは結果を出すためにするものなのに、なんの結果がなくても努力自体が評価されてしまうことって、よくありませんか? (「良くありませんか?」じゃなくて「頻繁にありませんか?」です。ニホンゴムツカシイデスネ。)

    たとえば、そろそろ大学3年生が就職活動をはじめるころだが、そのときの履歴書などの書類は往々にして手書きが要求される。しかも具体的に「履歴書は手書きのこと」と指示されるわけではなく、なんとなく社会常識で手書きじゃなけりゃ、みたいな感じ。これは書く方にとってはかなりの手間だし、読む方もワープロ印刷のほうが読みやすく、だれの得にもならない。しかし、本来はなんの効果がなくても「御社のために努力しました」ということが評価されるため、社会的条件反射によって実際に就職できてしまったりするから手に負えない。

    今年も数多くの大学生の貴重な青春の時が、まったく無意味な履歴書書きに費やされるだろう。このような問題は、多分、一朝一夕には解決しないだろう。少しでも多くのひとがベルだけでは腹はふくれないことに気づいて、自分のできる範囲で少しづつ努力するしかない。たとえばあなたが会社の人事担当なら、応募要項に「履歴書はワープロ書きのこと」と書くか、あるいはウェブページから入力できるようにすれば、徐々にだが状況は改善されるだろう。

    ナカムラも微力ながら「努力=結果」という条件反射をたちきるために、できることはやろうと思う。ということで、「授業は全部出て、一番前にすわってノートとってます」というのは全く評価しない。重要なのは授業の内容を理解したかどうかであり、レポートなりテストなりの結果がすべてである。今、ナカムラの講義のレポート書いている学生の諸君、健闘を祈る。