2011年4月25日月曜日

かけざん(2): 前回から時間たっちゃった。

前回書いた「かけ算問題」をシリーズものにするつもりだったが,他のネタを書いているうちに時間がすぎてしまいました。全国のかけ算ファンのみなさま,お待たせしました(?)。さて,もう,大分前の話になったが,前回の記事について,あらきさんがそれに的確なコメントをくれた。
つまり子供がことばを覚えるときに、 現実の中に「言葉で表現できるもの」がいっぱいあって、 その中に「うまく数値で表現できるもの」いっぱいあって、 その数値で表現できるものの中には 「数の四則演算のルールに則って処理していい組み合わせ」あるし、そうでないものいっぱいある
ナカムラが言いたかったことは,まさにこれで,それをこんだけコンサイスにまとめてもらえば,もう続編を書く必要もなし,これにて終了,ちゃんちゃん。

…というので終わるのもありだが,実は前回の時点でかなり書いてあった部分もあり,また,あとからいろいろと考えることもあったので,蛇足ながら数と現実の関係についてもう少し書いてみよう。全部書くとかなり長くなるので,少しずつ小出しに。

まず,実数と整数について。われわれは学校で,先にいち,に,さんと数えられるもの,たとえば人だとかりんごだとかの数,を習って,つぎにその掛け算や足し算を習い,つぎに,そのような数えられる数(整数)で表されないもの,たとえば,りんごの重さや人の身長,を少数や分数であらわすことを習う。そして整数の拡張として実数を導入し,これさえあれば(複素数とかベクトルとかを使う一部マニアをのぞいて)おっけー,整数は実数の一部,とならう。(有理数と無理数の違いとかも習うけど,覚えてるひと少ないですよね。ここでは,気にしないことにしましょう。)

これは本当だろうか? いや,本当といえば本当なんだが,別の考え方もできるんじゃないか? つまり,整数と実数は別の種類の現象をあらわすためのまったく別のもので,われわれは実数のなかのごく一部のきりのいい数 --- 1とか2とか --- を整数と混同しているだけ,と考えることもできる。考えてみれば,現実のある現象なり物体なりが,あるときには整数で,あるときには実数であらわされるということは,まずない。そして,多くの場合,整数は,ある現象に対する数が一意に決まるのに対し,実数は測定の基準となる単位によって対応する値が違ってくるのが普通である。たとえば,部屋にいる人間の数が5人というとき,それはだれがどういう方法で数えても,「5」という値は揺るぎない。それに対して,その5人の体重の合計が340.2kgというとき,その340.2という数はキログラムを単位としており,ポンドとか匁とかでいうと別の値になる。つまり,実数であらわされる数の多くは,ある基準となる量 --- たとえば重さの場合はキログラム原器の重さ --- の何倍か,という方法で値を決めているので,ちがう基準量ではかれば,違う数になるのである。また,実数の場合は必ず原理的に誤差をともなうのに対し,整数では正確に数える手段さえあれば,原理的には誤差をなくすることができる。

さらに,そういう具合に,別の実体をあらわす整数と実数を別ものだと考えるとすると,実は整数や実数の中でもいろいろ違うものがでてくる。たとえば,前回にちょっとでてきた月の名前は,なんとなく整数だと思っているが,実は12までしかない数なので,大手をふって整数というのは,ちとはばかられる。ゼロ以上の整数を自然数といって区別するなら,1から12までしかない整数も「月数」とかなんとか,別の言葉であらわしていいのではなかろうか。さらに,この「月数」は演算において,われわれの知っている整数とは著しく違った振る舞いをする。まず掛け算は受け付けない。さらに月数同士の足し算もありえない。あるのは月数+整数という演算で,つまり3月の4ヶ月後は7月,とかいうのを足し算であらわすわけだ。さらにさらに,この演算では3(月)+4(ヶ月)=7(月)だが,7(月)+8(ヶ月)=3(月)という具合に,普通の整数の足し算とはまったく違った挙動をしめす。

このへんの事情が顕著にあらわれるのは英語をはじめとするヨーロッパ系言語で,月の名前を数字でなく,January,Februaryなどという,専用の単語であらわす。つまり,普通の数ではない月を示す特別の単語群があり,それと整数の間で足し算が定義されていて,結果は月を表す単語になるのである。蛇足になるが,perlなどのアメリカ製のプログラム言語のライブラリでは,整数型で月をあらわしており,Jan=0,Feb=1,などと定義されているものがある。アメリカ人にはJanuaryが1に対応するという感覚はないようだ。

そういうわれわれ日本人だって,曜日は月,火,水という専用の単語であつかっており,月曜の三日後,とかいう曜日と整数の間の混合演算をやっている。いや,そう思って内省するに,「2月の3ヶ月後」というときは足し算で5という答えをだすが,「月曜の3日後」というときは「月,火,水,木」と指折り数えている。で,後者の場合「計算している」という感覚が希薄だという人が多いのではなかろうか? 月曜が0に対応するか,1に対応するか,なんて考えてみたことないでしょう?

ということで,今回は規定文字数に達した(?)ので,続きは次回に。いつになりますやら…。

2011年4月9日土曜日

想定外

今回の津波で原発がやられたのは想定外だという話をよくきく。それに対して,いや,過去の地震データなどからわかってたはずだ,という声もある。あるいは,こんなに想定外の地震でも,福島第一以外の原発はちゃんともちこたえ,第一だってただちに大惨事にはならずに,現時点(2011年4月9日)では予断はゆるさないとはいえ,収束の方向に向かっているのだから,日本の原発はきわめて安全に設計されてる,という説がある。それに対して,でも大惨事一歩手前までいったわけだし,福島第一原発は老朽化していて,いろいろと穴があるのを放置していたから,かなり脆弱だったことはわかっていたはず,という声もある。

で,たいていの場合,前者を原発推進派が言い,後者を反原発派が言うのだが,これって逆じゃないか? 現在起こっている悲劇に対して,その責任がどこにあるのか,という後ろ向きの議論(と言っても大切な議論だが)ではなく,将来われわれは原発を使い続けるべきか,という議論をするとき,現在起きていることが想定外であったほうが危険なことになる。

もし,電力会社をはじめとする推進派が腹黒いやつらで,「いまの想定よりもちょっとでかい津波がくるかもしれないが,まあ,多分そんなことは起こらないだろうし,起こったとしても原発のある福島とか福井の田舎が被害にあうだけで,大都会にいる俺達はこまらない」とか考えて現状をまねいたとしたのなら,まだ将来改善の余地がある。だって,そんな腹黒い奴らを駆逐して,考えられるすべてに対策をとればいいわけだから。ところが,そうではなくて,善意で安全を考え,考えられるすべての対策をしていたにもかかわらず,こんなことになったのなら,話は深刻だ。そうだとすれば,今回の悲劇は原理的にさけられなかったわけで,今後原発推進を再開したとしても,また想定外のことが起こるかもしれない。

さらに,「福島第一原発は老朽化していて,ちとあぶないと思っていたんだけど,新しく建てるのは金もかかるし,住民の反対もあるし,まあしばらくは,このまま使おう」というのだったら,改善の余地はあるが,「古いとはいえ,日本のもてる安全技術のすべてを注ぎこんで万全を期してました」というのだったら,それ以上は手の打ちようがないので,また今回のようなことが起こる可能性がある。

いや,今回の事故を教訓に,完璧な津波対策をほどこします,と言っても「想定外」のことが津波だけとは限らない。文字通り「想定外」なのだから,なにが起こるかは予測できないわけだ。すべての悪い可能性を考えていたらなにもできない,という意見もあるが,そしてそれには同意するが,「なにもできない」というのと「なにもできないのは困るから,なにをしてもいい」というのは話がちがう。つまり,そこそこ危険ではあるが,なにか起きたときの悲劇がある程度限定的ならば,あえてリスクを負うというチョイスもあるが,結果が壊滅的だとやっぱやめといたほがいい,ということにならないだろうか。

で,ナカムラは原発の場合「あえてリスクを負う」というには,あまりに危険すぎないか,と思うわけである。たとえば,ナカムラの住む福井で原発事故が起きて,今回よりもさらにひどい最悪の事態になって,高濃度の汚染物質が飛散によって琵琶湖が汚染された場合,関西地方は捨てなくてはならない。いや,実はそういう最悪のことが起きても放射線の量は限定的で,「ただちに健康に影響がでるわけではない」というのは事実かもしれない(事実でないかもしれない,ナカムラの現在の知識では判断しかねる)が,今回のように,あきらかに福島の安全な地域から来たひとに対しても「福島県民お断り」みたいなうごきがあるということは,社会的影響が甚大であることを意味する。「それは科学リテラシーの低いやつらがパニックになってるだけだ」というのは簡単だが,その言葉にはなんの実効性もない。琵琶湖の水がなんらかの形で深刻に汚染された場合は,現実としてそういうパニックが起きて,社会的影響から関西はアウトだろう。そのときに「それはパニックだ」と言ってもなんの意味もない。

というわけで,ナカムラは原発は将来的には廃止すべきだと思っているが,だからといって太陽光や風力による発電で原発の損失が完全にまかなえるか,というのには疑問をもっている。これについて議論すると長くなるので別の機会にするが,原発をなくする,という判断は供給電力量が減って,日本の経済は沈滞し,夏はくそ暑くても冷房なし,という覚悟がいると思う。「原発なんてなくても,代替エネルギーで十分ですよ」というのは「原発は絶対安全ですよ」というのと同じく悪質なプロパガンダなんじゃないか。

それでも原発をなくすべきか,というのは意見のわかれるところで,たとえばいま,まさに潰れそうな中小企業の社長さんや契約社員にとっては,経済の沈滞は死活問題で「明日生きるために今日死ねというのか」ということになるかもしれない。だから,この問題はなにがなんでも原発が善とか悪とかいうわけでなく,メリットとデメリットを勘案して合意形成していくべきものだと思う。そして,ナカムラの「キミはどう思うの?」ときかれたときの答えは,「極端な影響がでないように徐々に原発への依存度を減らしていきながら,将来は全面廃止すべき」である。

2011年4月6日水曜日

VAIO-X+ubuntu 10.10

VAIO-Xにubuntuの10.10を入れました。トラブルシューティングの備忘録。ほかのひとの情報提供が参考になったので,これを公開するとちょっとだけ恩返しになるかも。質問があったらコメント欄にください。ただし,あまり内容を理解してないので,役に立たない可能性大。あとレスポンス悪いです。
  • usbディスクからインストールしたが,unetbootinではいきなり10.10をインストールできなかったので,まず10.4を入れてから10.10にアップグレード。
  • skypeで内蔵マイクが使えなかった=内蔵マイクの入力をサウンドモジュールalsaが拾ってなかった。
    • alsaのソース(1.0.24)を拾ってきてコンパイル。(たとえば,ここ参照。詳しくはソースについてくるINSTALLファイルを。)
    • alsa-driverのコンパイルのときに --with-oss=noオプションをつけないと,できたモジュールがロードされない。(新しいバージョンでossサポートやめたとかいう書いてあるページがあったけど,今見つからない…)
    • --with-oss=noをつけないと以下の症状がでる。
      ・/proc/asoundができない。
      ・dmesgでsnd関連モジュールがみつからないと文句をいわれる。
  • サスペンドはここの処方箋でできるようになる。でもいまいち不安定かも。
  • あとは大したトラブルなく,内蔵カメラからSDカードドライブまで問題なく使えてます。起動が速い!



2011/4/25 追記
  • 直接OSには関係ないけど,Lyxでpxfontsとかtxfontsを使うと,積分記号が化けます。これはLyxでesint.styを使うのがデフォルトになっていて,esint.styとpxfontsの相性がわるいからだそうです。文章の設定にある数式オプションでesintをはずすと解決します。