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全くの偶然がないと絶対に会うことがなかった,というようなものに妙に憧れる。知らない土地に行って時間が余ると,まず一ケタの数字を決める。たとえば通り過ぎた車のナンバーだとか,たまたま目にした看板の数字だとかの最後の一ケタを使うことが多い。そして,地下鉄だとかバスだとかに乗って,その数だけ先に行った駅で降りる。あるいは車なら高速道路のその数だけ先の出口で降りる。で,あたりをうろうろするわけだが,偶然から生まれた驚きの出会いにいつも感動する … なんてうまいことはほぼなくて,退屈な街の退屈な日常しかないことがほとんどだ。でも,通り過ぎる歩行者だとか平凡な家並みとかが,全くの偶然がないと決して見ることのなかったものであり,そして今後二度と目にすることもないだろうと思うと,結構楽しい。
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大学院の修士の頃,四畳半一間,トイレ共同風呂なしの下宿に住んでいた。向かいの部屋は高齢の女性がひとりで住んでいて,あまり親しくはなかったが廊下であったら挨拶などはしていた。なにをして暮らしているのかは知らなかったが,買い物などに出かける以外はほとんど部屋でテレビを見ていたと思う。彼女は人相を覚えているわけではなく「向かいの部屋に住むあんちゃん」ということで,こちらを個体認識しているみたいだった。道で歩いているときに挨拶しても怪訝な顔をされた。どうやら創価学会の会員だったらしく,都議選などが近づくと「これ,たくさん作りすぎてあまったから」と言ってテンプラなどをわけてくれて,それとなく公明党に投票するようにうながされた。テンプラをたべながら「もちろん,入れますよ」と言うと嬉しそうだった。もちろん,公明党には入れなかった。テンプラは味が薄くて,あまり美味しくなかった。
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そのころ,女友達が「ただすくん,漢字で“あまくち”ってかいてみて,横書きで」というので書くと「なんか牛に見えない?」と言いながら,口の下に二本足を描いて“甘只”のようにした。
それから“甘口”は牛にしか見えなくなった。
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この写真のような,切った爪がとばないツメキリで爪を切っていたら,
力を入れすぎてカバーがはずれて,この写真の状態のようになった。あいたたたたた,切った爪が飛びちりまくり。
そこで思ったのは,この状況を写真を使わずに説明するととっても大変だなあ,今は携帯電話にカメラがついて便利な世の中になったものよ,ということ。いや,そもそもblogみたいな情報サービスがないころには,そばにいる人以外にはこんなことを言うこともできなかったわけである。しかし,このような,激しくどーでもいいことを読まされるほうは時間の無駄,という考えもできるかな。まあ,文明による生活の向上というものはそういうものだ(ナンカエラソウニマトメテル)。
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もう数年前になるが,ナカムラの大学に集中講義に来てくれた社会学者の方と夕食をとる機会があった。とても面白い話がいくつもきけて,めちゃくちゃ楽しかったのだが,かなり酔っ払ったころに,お互いにお互いのblogの読者であることが判明した。なかなか新鮮な驚きであった。ということで,実は今回はその方の最近の文章をちょっとまねして書いてみました。やっぱり本家ほどうまくはいかないな。