前回「月も火星もはるかに越えて」というタイトルにしたら,一部でとても食いつきが良かったが,これは実はキャプテンウルトラという昔のSFテレビ番組の主題歌の出だしである。この歌詞にあるように,この手のSFでは,地球を宇宙船で出発すると,あっというまに「月も火星も」越えてしまって,宇宙人のいる別の惑星系まで飛んでいくのが普通である。
しかし,実際に月や火星,ましてやバンデル星人のいる遠い宇宙にそんなに簡単に行けるのだろうか? 前回,宇宙は人類のフロンティア,みたいな話を書いたが,今回はそのフロンティアとしての宇宙のどの辺まで人類は行けるのか,ということを考えてみよう。実は現実は結構残念な状況である。
まず,「月も火星も」といっしょくたにするが,この二者はかなり距離が違う。地球から月までは約40万km,それに対して火星までは軌道の関係で地球との距離が一定ではないが,ざくっと言って数億kmの距離がある。つまり3桁もちがうのだ。月までの距離を,福井県立大学からサニーサイドまでと例えると,火星は東京までの距離になる。うちの大学の関係者以外は「サニーサイドってなに?」と思うかもしれないが,それは福井県立大学の近くの喫茶店です。福井から東京までの距離を地球から火星にたとえると,月ぐらいのところにあります。
ということで,人類はすでに月までは行ってるわけだが,これは数日で行って帰ってこれた。サニーサイドに昼飯を食べにいくようなものである,ちょっと違うが。しかし,火星までになると最短で2年ちかくかかるわけで,現在,火星旅行に必要な520日間閉鎖された宇宙船のようなにとじこめられたら,人間はどうなるだろうという実験がおこなわれていたりする。シュピーゲル号(キャプテンウルトラの宇宙船です)のように,あっというまに「はるかに越えて」というわけにはいかない。
ちなみに,アメリカやロシアで火星旅行の計画がなされてると聞くと,荒涼たる砂漠のような火星の大地をふみしめる宇宙飛行士というイメージを想像するが,たぶん,みなさんが生きているうちにそういう映像をみることはない。火星に一度着陸してしまうと,また宇宙空間にもどるために,大きな打ち上げ用ロケットが必要になるからだ。月の場合は重力が弱いので,アポロの月着陸船程度のロケットで帰ってこれたが,火星の場合は,地球より少し小さいとはいえ,れっきとした惑星なので,重力をふりきるには,莫大なエネルギーが必要なのである。したがって,今計画されている火星有人探査は周回軌道をまわるだけ,つまり宇宙ステーションから地球をみるように,火星をながめて帰ってくるだけである。
まあ,それでも往復で520日なら,なんとか我慢して火星まで行ってこようという気になるかもしれない。しかし,すぐおとなりの惑星の火星ですらそんなにかかるのだったら,他の惑星に行くにはどれくらいかかるのだろうか? たとえば,土星にはカッシーニというアメリカの無人探査機が行っているが,これは到着までに8年かかっている。片道8年ということは往復で16年,宇宙船の居住スペースがどれくらいかは不定要素があるが,いまの国際宇宙ステーションとくらべてそれほど違わないと考えられるだろう,そのような閉鎖空間で16年暮らさなくてはならないのだ。
太陽系のほかの惑星に行くだけで人生の何分の一かの期間,恋も娯楽もあきらめて閉鎖空間にいなくてはならないというのは,それだけで憂鬱だが,しかし,そうして行ける太陽系の惑星には高等生物がいないことは,ほぼ確実だ。では,バンデル星人のような宇宙人に会いに太陽系外の星に行くのはどれくらいかかるのだろうか? 実は太陽にもっとも近い恒星は約4光年先にあるが,これは火星までの距離の数十万倍になる。つまり,火星までの距離を福井-東京間にたとえても,「月をはるかに越えて」という距離になってしまうのだ。太陽系の惑星間を数年から数十年で移動できる現在の技術だと,いくら頑張っても数万年かかってしまう。
しかも,数万年かかるのは,4光年先の太陽のおとなりの恒星であり,われわれのいる天の川銀河(直径8〜10万光年)の中では,ごくごく近所であることを考えると,もう気が遠くなる。さらに,おとなりの銀河であるアンドロメダ銀河が約230万光年先だったりするわけで,宇宙ってのはひろいなあ。いや,そのアンドロメダだって,われわれの知っている宇宙のなかでは,ごくごく近所で,現在観測されているもっとも遠い銀河は100億光年以上先にある。で,われわれ地球人が現実的に行けるのは,そのひろい宇宙のごく一部,たぶん,一生懸命がんばって土星あたりがいいところじゃなかろうか,と思うわけである。「月も火星もはるかに越えて」宇宙にとびだしても,行けるところは,たかだか知れてるわけだ。
2011年2月25日金曜日
2011年2月24日木曜日
twitterに書こうかと思ったら,ちと長くなったのでこちらに。
あることが積極的に信じられないというのは,それと反対の主張を積極的に支持する根拠にはならない。たとえば,キリスト教原理主義の創造論者がよく使うレトリックに,「ダーウィンの進化論では,これこれの事実が説明できない,だから,生物は神が造りたもうた」というのがある。
「CO2地球温暖化説いろいろと不備がある,だから地球温暖化はしていない」というのは,これと同様だと思う。
「CO2地球温暖化説いろいろと不備がある,だから地球温暖化はしていない」というのは,これと同様だと思う。
月も火星もはるかに超えて(1)。
少しまえになるが,日本人宇宙飛行士の若田さんが,国際宇宙ステーション(以下ISSと略)の船長になるというニュースがあった。英語の「commander」を多くの日本メディアは「船長」と訳していたが,「ステーション」の長だったら「駅長」ではなかろうか,というボケは別として,めでたいニュースには違いない。しかし,宇宙科学の研究者の多くと同様,ナカムラはこういうニュースを見ると釈然としないものがある。理由は簡単,宇宙ステーションは投入したコストのわりに,あまりにしょぼい成果しかあげてないからだ。
くわしいことは,以前にラジオでしゃべったことがあるので,お暇なかたはそれを聞いていただくか,あるいは宇宙ジャーナリストの松浦氏の解説を読んでいただくとして,端的にいうと,ISSに限らず宇宙ステーションという枠組みは科学・技術の研究には極めて効率的が悪い,ということだ。ISSのニュースといえば,日本人クルーが琴の演奏をしましたとか,紙飛行機を飛ばしましたとかいう「ほのぼのニュース」ばっかりで,こんな大発見がありましたとか,すばらしい素材の製法がわかりましたとかいうのは聞いたことがないでしょう? やってる実験の中には,たとえばこんなものもあって,これがわざわざ何千億円もかけた実験施設でやるべきことだろうか?
まあ,これにはいろいろと政治的バックグラウンドなどがあって,ネットで検索するといろいろと内情がわかってくるわけだが,われわれ研究者にとっていちばん困るのは,ただでさえ少ない宇宙開発予算がほぼ無駄(と言ってよいと思う)に使われるということである。
ただ,こういう考えは科学至上主義という批判もある。たとえば,南極点やエベレスト頂上に人類が立つというのは,とくに科学的知識や実際の利益をもたらすものではないが, 人類のフロンティアへの挑戦として意味があるというのである。ナカムラは登山もやるので,基本的にはこの考えには賛同できるが,しかし,現在の国際宇宙ステーションがフロンティアかといういと,はなはだ疑問である。
ニュースなどでISSにいる宇宙飛行士の映像を見ると,いかにも遠い宇宙空間という感じがするが,実はISSが飛んでいるのは地表から上空400kmほどのところである。これは東京-福井間よりちょっと遠い,というくらいの距離でしかない。「え,福井ってどこ?」だって? すみません,ナカムラの住んでる福井は島根などと知名度最低を争う県なもので(福島と間違えんなよ)。まあ,東京-大阪間くらいと思ってください。地球の直径が1万3000kmであることを考えると,自分のうちの玄関先くらいの場所と思ってよかろう。しかも,そのあたりの宇宙空間に(ちょっと低いけど)人類がはじめて行ったのは1961年のガガーリンなわけで,もう半世紀も前の話だ。
ということで,ISSはやっぱりイマイチ,という話になるわけだが,では,フロンティアとしてもっと遠い宇宙に行くというのはどうだろうか?というのが次回の話題になります。などといいながら,前書いた掛け算の話題も「次回」をまだ書いてないわけだが,気長にまっていてください。
追記:
つづき書きました。
くわしいことは,以前にラジオでしゃべったことがあるので,お暇なかたはそれを聞いていただくか,あるいは宇宙ジャーナリストの松浦氏の解説を読んでいただくとして,端的にいうと,ISSに限らず宇宙ステーションという枠組みは科学・技術の研究には極めて効率的が悪い,ということだ。ISSのニュースといえば,日本人クルーが琴の演奏をしましたとか,紙飛行機を飛ばしましたとかいう「ほのぼのニュース」ばっかりで,こんな大発見がありましたとか,すばらしい素材の製法がわかりましたとかいうのは聞いたことがないでしょう? やってる実験の中には,たとえばこんなものもあって,これがわざわざ何千億円もかけた実験施設でやるべきことだろうか?
まあ,これにはいろいろと政治的バックグラウンドなどがあって,ネットで検索するといろいろと内情がわかってくるわけだが,われわれ研究者にとっていちばん困るのは,ただでさえ少ない宇宙開発予算がほぼ無駄(と言ってよいと思う)に使われるということである。
ただ,こういう考えは科学至上主義という批判もある。たとえば,南極点やエベレスト頂上に人類が立つというのは,とくに科学的知識や実際の利益をもたらすものではないが, 人類のフロンティアへの挑戦として意味があるというのである。ナカムラは登山もやるので,基本的にはこの考えには賛同できるが,しかし,現在の国際宇宙ステーションがフロンティアかといういと,はなはだ疑問である。
ニュースなどでISSにいる宇宙飛行士の映像を見ると,いかにも遠い宇宙空間という感じがするが,実はISSが飛んでいるのは地表から上空400kmほどのところである。これは東京-福井間よりちょっと遠い,というくらいの距離でしかない。「え,福井ってどこ?」だって? すみません,ナカムラの住んでる福井は島根などと知名度最低を争う県なもので(福島と間違えんなよ)。まあ,東京-大阪間くらいと思ってください。地球の直径が1万3000kmであることを考えると,自分のうちの玄関先くらいの場所と思ってよかろう。しかも,そのあたりの宇宙空間に(ちょっと低いけど)人類がはじめて行ったのは1961年のガガーリンなわけで,もう半世紀も前の話だ。
ということで,ISSはやっぱりイマイチ,という話になるわけだが,では,フロンティアとしてもっと遠い宇宙に行くというのはどうだろうか?というのが次回の話題になります。などといいながら,前書いた掛け算の話題も「次回」をまだ書いてないわけだが,気長にまっていてください。
追記:
つづき書きました。
2011年2月14日月曜日
バーゼル問題なんて証明したくなかったんだからねっ!
先週のおわりに,とある計算をしていて
という級数の値を求める必要がでてきた。これが奇数の和じゃなくて整数の和だったらバーゼル問題という有名な問題で,かの有名なレオンハルト・オイラーによってπ2/6になることが示されている(実は江戸時代の和算家の
建部賢弘がオイラーより先に解いている)。で,それをいじったらなんとかなるかな,としばらく考えていたのだがよくわからん,困ったときの他力本願というのでtwitterに
奇数の自乗の逆数の和 (1+ 1/3^2+ 1/5^2 + ...) って何に収束するか知ってる人いません? バーゼル問題のバリエーションだから,その証明をちょっといじったらなんとかなるのかな?と,投稿をした。その後の展開はtogetterにまとめてあるのでそちらを参考にしていただくとして(togetterはじめて使ったぜ), 驚くべきは30分以内に二人の方から解答をいただいたということである(ナカムラは結構考えたけどわからなかったのに...)。ちなみに@MachiParuさんの方は最初は値が違っていたが,このような問題では解法が重要で,それさえわかれば値はなんとでもなるものである。で,まとめにもあるように,その晩に金沢のジャズ屋で美人ボーカルの歌を聴いているうちに,これはひょっとしてバーゼル問題の証明になってるのではなかろうか,と思い始めて,日曜にやってみたら証明できました。これ(pdf)。
こういうのって,ちょっと嬉しくないですか?だって前々世紀のこととはいえ,有名な数学者が頭を悩ました問題の別証明を思いついたことになるわけでしょう,まあ,証明の最後は,ちょっとひとの手をかりたけど。で,まとめのなかほどにある「かわゆい女の子にやさしくされる」状態だったわけだが,ネットで調べてみると,「ちょっとひとの手をかりたけど」という部分こそが「一番ひらめきの要るところだったりします」だそうな。Life is a bitch, sometimes... しかし,それを30分以内に思いついたお二人は真におそるべし。ところで,この証明はここ(pdf)にある14の解法のうちの4つめのやつのバリエーションで,オリジナリティは全然ないみたいです。
2011年2月4日金曜日
かけざん(1): あえて火中の地雷を踏む?
さて,再開第一弾。blogをしばらく,というか長い間休んでたのは,もう面倒くさくなったからではないか,と思われる方もいらっしゃるだろうが,その通りです。しかし,毎日生きていると,「ああ,これなんかblogに書くと面白そうな話題だな」ということがひと月に何回かはあって,でも「最近書いてないし,また再開しても続かないだろうし」などと思っているうちにずるずると日が過ぎていったわけであるが,この心理は常連で足しげく通っていた店にしばらく行かなくなると,行きづらくなるのに似ているかもしれない。で,今回再開して,そいういう話題のひとつから始めようと思う。
少し前から,twitter等で小学校で掛け算を教えるときに順序を気にすべきか,という論争が続いている。聞くところによると,1970代からある古い話題そうだ。詳しくは「掛け算+順序」などで検索していただくとして,しかし,そうしてヒットする文献は激しく膨大なので,超要約すると,掛け算はどっちをさきに掛けても同じ演算なので,順序を気にするべからずという可換陣営と,いやいや掛けられる数の対応するものを見ると,質が違うものなので,気安く掛け算の順序を換えるべからず,という非可換陣営の論争である。いや,長い論争を全部読んだわけではないので(というか,ごく一部しかみてない),ナカムラは全貌を把握しているわけではない。議論の本質はそんなことじゃない,というむきもあるかもしれないが,以下ではこの論争のそういう側面について考える。
これは,なかなか興味深い論争だと思う。たとえば,911陰謀説とか,ホメオパシー論争とかのように,片一方がまったくのパッパラパーで相手の言うことに聞く耳持たぬ,というのとは違って,双方とも聡明で理性的なひとたちが,延々と論争をしていて,それでも決着がつかないという状況ではかろうか。ナカムラはどちらかというと可換派の肩をもちたいが,非可換派の主張もよく考えられていて,たとえば,こういう先生に習ったなら,たとえ非可換派の主張が間違えていたとしても,生徒達は勉強になるだろうな,とも思う。
なので,ナカムラは,この長い論争にあえて参戦して火中の地雷を踏む気はない。以下では,この掛け算論争の構造をみていくことで,日頃ナカムラが思っている数と現実の対応関係を考えてみようというのである。
もともと数というのは,ある演算規則 -- 具体的には加減乗除 -- を満たす抽象的概念として,人間の頭のなかにあり,それを現実問題にうまく対応させると便利な道具として使えるというものだ,とナカムラは考える(そうでない立場もあるそうな)。1 + 1 = 2,2 × 3 = 6というような四則演算の規則を決めておいて,たとえば200mlの水と350mlの水がべつべつの容器に入っているとき,ひとつの容器にまとめてみなくても,あわせて550mlあることが計算によってわかる。 つまり,「ひとつの容器にまとめる」という操作を,足し算という演算におきかえると,現実を予測できるわけである。このへんの事情は以前に書いたことがあるが,むやみに長いわりには情報量が少ないので,娯楽として暇なかた限定でお読みください。
この現実と演算の対応は自明ではなく,そのつど現実を観察して決めてやらなくてはならない。たとえば,さきほどの体積の場合は足し算は有効だが,温度の場合はそうはいかない。40℃の湯と20℃の水をまぜても,60℃にはならないでしょ? また,現実と演算がうまく対応している場合でも,その対応の仕方はひととおりではなく,いろいろな状況が考えられる。で,上でのべた演算順序論争は,このあたりの事情を明確にするいい題材だと思う。
思うに掛け算というものは数学的演算としての文句なく可換だが,それを適用する現実の「可換性」とは別に考えなくてはならないのではなかろうか。はじめに,多分両陣営のどちらも合意するであろう,足し算の可換性から考えよう。つまり 3 + 2 を 2 + 3 と書いても文句をいう人は少なかろう(でも,以下にみるようにこれも場合によっては問題あり)。数学的演算としては 3 + 2 = 2 + 3 で,これはまったく問題ない。
で,たとえばこれを適用できる現実の問題として,「部屋に男の子が3人と女の子が2人います。合計で何人でしょう?」というような例が考えられる。「当然,男が先になるべきだ」というようなハイパーセクシストでない限り,どちらを先にしても文句は出まい。これは,あつかっているのが人間の数であり,男も女も(ハイパーセクシスト以外には)同質のものと考えられるからだ。この,「同質のものだからどっちが先でもいいじゃん」という状況を,果たして可換という数学用語で表現していいのか,という疑問は残る。そこで,ここではこの現実の可換性については「可換」というように括弧つきで表記しよう。
それに対して,問題になっているのは掛け算の 2 x 3 = 3 x 2 である。たとえば,「耳がふたつのうさぎが3羽いたら耳はいくつか?」という問題で,非可換陣営は数学的演算としては可換だが,実際問題として,うさぎの耳とうさぎの数は別物なので,小学生に教えるには,その違いをはっきりさせておかなくては,と主張しているのであろう。これには一理あるような気もするが,ちと無理もあるような気もする。たとえば,よく指摘されているように,うさぎさんの耳ではなくて「縦 3cm 横 2cm の長方形の面積は?」みたいな問題だと,空間が回転に対して対称である限り,どちらを先にしても問題なかろう。つまり現実も「可換」なわけだ。
しかし足し算だって,「非可換」な現実を考えることができる。たとえば「3月の2ヶ月後は何月でしょう?」という問題である。この場合,3 と 2 に対応する現実はあきらかに異質なものだ。英語にしてみると前者は March,後者は two months になることからも明白だろう。
そう考えると,掛け算の「非可換性」は掛け算という数学的演算そのものの性質ではなく,それを応用する現実によるものであることがわかる。足し算も掛け算も,対応する現実は「可換」だったり「非可換」だったりするのだが,足し算だと「可換」な場合が,掛け算だと「非可換」な場合が圧倒的に多いので,なんとなく掛け算は順序をちゃんと考えなくちゃね,みたいな話になるのではなかろうか。となると,非可換陣営はちと旗色悪い。しかし,もちろん,具体的にうさぎの問題を解いてる時は,数式も非可換にすべきだ,という主張はできる。でも,その場合は上で考えたようなことを延々と説明せねばならぬので,小学生に教えるときはどうかなあ,とは思う。
そこで,ここからが本題。われわれは「掛け算」というと,ただ一種類に決まる操作のように考えがちだが,実は現実問題への対応としてはいく種類もあるものではなかろうか? これは掛け算に限らず,足し算だとか数そのものだとか,数学であつかういろいろな要素が実は微妙に違う現実問題をあつかう微妙に違う構造なのだが,普通に使っている数の体系があまりにうまく種々の現実に適用できるため,それに気がついてないのではないかと思われる。
というあたりで,ちと長くなりすぎたので,続きは次回へ。次回の文章はまだ書いてないので,いつになるかわからんが,のんびりとお待ちください。
少し前から,twitter等で小学校で掛け算を教えるときに順序を気にすべきか,という論争が続いている。聞くところによると,1970代からある古い話題そうだ。詳しくは「掛け算+順序」などで検索していただくとして,しかし,そうしてヒットする文献は激しく膨大なので,超要約すると,掛け算はどっちをさきに掛けても同じ演算なので,順序を気にするべからずという可換陣営と,いやいや掛けられる数の対応するものを見ると,質が違うものなので,気安く掛け算の順序を換えるべからず,という非可換陣営の論争である。いや,長い論争を全部読んだわけではないので(というか,ごく一部しかみてない),ナカムラは全貌を把握しているわけではない。議論の本質はそんなことじゃない,というむきもあるかもしれないが,以下ではこの論争のそういう側面について考える。
これは,なかなか興味深い論争だと思う。たとえば,911陰謀説とか,ホメオパシー論争とかのように,片一方がまったくのパッパラパーで相手の言うことに聞く耳持たぬ,というのとは違って,双方とも聡明で理性的なひとたちが,延々と論争をしていて,それでも決着がつかないという状況ではかろうか。ナカムラはどちらかというと可換派の肩をもちたいが,非可換派の主張もよく考えられていて,たとえば,こういう先生に習ったなら,たとえ非可換派の主張が間違えていたとしても,生徒達は勉強になるだろうな,とも思う。
なので,ナカムラは,この長い論争にあえて参戦して火中の地雷を踏む気はない。以下では,この掛け算論争の構造をみていくことで,日頃ナカムラが思っている数と現実の対応関係を考えてみようというのである。
もともと数というのは,ある演算規則 -- 具体的には加減乗除 -- を満たす抽象的概念として,人間の頭のなかにあり,それを現実問題にうまく対応させると便利な道具として使えるというものだ,とナカムラは考える(そうでない立場もあるそうな)。1 + 1 = 2,2 × 3 = 6というような四則演算の規則を決めておいて,たとえば200mlの水と350mlの水がべつべつの容器に入っているとき,ひとつの容器にまとめてみなくても,あわせて550mlあることが計算によってわかる。 つまり,「ひとつの容器にまとめる」という操作を,足し算という演算におきかえると,現実を予測できるわけである。このへんの事情は以前に書いたことがあるが,むやみに長いわりには情報量が少ないので,娯楽として暇なかた限定でお読みください。
この現実と演算の対応は自明ではなく,そのつど現実を観察して決めてやらなくてはならない。たとえば,さきほどの体積の場合は足し算は有効だが,温度の場合はそうはいかない。40℃の湯と20℃の水をまぜても,60℃にはならないでしょ? また,現実と演算がうまく対応している場合でも,その対応の仕方はひととおりではなく,いろいろな状況が考えられる。で,上でのべた演算順序論争は,このあたりの事情を明確にするいい題材だと思う。
思うに掛け算というものは数学的演算としての文句なく可換だが,それを適用する現実の「可換性」とは別に考えなくてはならないのではなかろうか。はじめに,多分両陣営のどちらも合意するであろう,足し算の可換性から考えよう。つまり 3 + 2 を 2 + 3 と書いても文句をいう人は少なかろう(でも,以下にみるようにこれも場合によっては問題あり)。数学的演算としては 3 + 2 = 2 + 3 で,これはまったく問題ない。
で,たとえばこれを適用できる現実の問題として,「部屋に男の子が3人と女の子が2人います。合計で何人でしょう?」というような例が考えられる。「当然,男が先になるべきだ」というようなハイパーセクシストでない限り,どちらを先にしても文句は出まい。これは,あつかっているのが人間の数であり,男も女も(ハイパーセクシスト以外には)同質のものと考えられるからだ。この,「同質のものだからどっちが先でもいいじゃん」という状況を,果たして可換という数学用語で表現していいのか,という疑問は残る。そこで,ここではこの現実の可換性については「可換」というように括弧つきで表記しよう。
それに対して,問題になっているのは掛け算の 2 x 3 = 3 x 2 である。たとえば,「耳がふたつのうさぎが3羽いたら耳はいくつか?」という問題で,非可換陣営は数学的演算としては可換だが,実際問題として,うさぎの耳とうさぎの数は別物なので,小学生に教えるには,その違いをはっきりさせておかなくては,と主張しているのであろう。これには一理あるような気もするが,ちと無理もあるような気もする。たとえば,よく指摘されているように,うさぎさんの耳ではなくて「縦 3cm 横 2cm の長方形の面積は?」みたいな問題だと,空間が回転に対して対称である限り,どちらを先にしても問題なかろう。つまり現実も「可換」なわけだ。
しかし足し算だって,「非可換」な現実を考えることができる。たとえば「3月の2ヶ月後は何月でしょう?」という問題である。この場合,3 と 2 に対応する現実はあきらかに異質なものだ。英語にしてみると前者は March,後者は two months になることからも明白だろう。
そう考えると,掛け算の「非可換性」は掛け算という数学的演算そのものの性質ではなく,それを応用する現実によるものであることがわかる。足し算も掛け算も,対応する現実は「可換」だったり「非可換」だったりするのだが,足し算だと「可換」な場合が,掛け算だと「非可換」な場合が圧倒的に多いので,なんとなく掛け算は順序をちゃんと考えなくちゃね,みたいな話になるのではなかろうか。となると,非可換陣営はちと旗色悪い。しかし,もちろん,具体的にうさぎの問題を解いてる時は,数式も非可換にすべきだ,という主張はできる。でも,その場合は上で考えたようなことを延々と説明せねばならぬので,小学生に教えるときはどうかなあ,とは思う。
そこで,ここからが本題。われわれは「掛け算」というと,ただ一種類に決まる操作のように考えがちだが,実は現実問題への対応としてはいく種類もあるものではなかろうか? これは掛け算に限らず,足し算だとか数そのものだとか,数学であつかういろいろな要素が実は微妙に違う現実問題をあつかう微妙に違う構造なのだが,普通に使っている数の体系があまりにうまく種々の現実に適用できるため,それに気がついてないのではないかと思われる。
というあたりで,ちと長くなりすぎたので,続きは次回へ。次回の文章はまだ書いてないので,いつになるかわからんが,のんびりとお待ちください。
2011年2月3日木曜日
blog再開?
以前,「極端大仏率Returns」というblogを書いていたのだが,一昨年のおわりあたりから,ほとんど放置していた。コメントくれたみなさん,ごめんなさい。
ということで,ひさびさに再開しようかと思ったのだが,時代は変わって自前のサーバーに記事をためておくのは「in」じゃないそうで,googleのサービスを利用してみました。まだよくわかっとらんので整備に時間がかかりそうですが,よろしく。
ということで,ひさびさに再開しようかと思ったのだが,時代は変わって自前のサーバーに記事をためておくのは「in」じゃないそうで,googleのサービスを利用してみました。まだよくわかっとらんので整備に時間がかかりそうですが,よろしく。
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