2014年1月19日日曜日

パブロフの努力

パブロフの犬というのをご存知だろうか? 外から見えない箱の中に犬をいれておいて、そのそばでベルをならすという実験をすると、犬がよだれを流したかどうかは箱をあけて犬を観測してみるまで決定されない、つまり、犬はよだれを流している状態と流していない状態との量子力学的重ね合わせの状態にあるという、量子論のパラドックスをカリカチュアライズした有名な思考実験である。あれ、ちょっとちがうな。まあ、正しくはネットで検索していただくとして、要するに条件反射である。

この条件反射というやつは犬畜生(愛犬家のみなさん、ごめんなさい)だけに起こるのではなく、人間様にもよく見られる現象である。さらに、人間の場合はまんまとベルにだまされてよだれを流しているのに、それに気がついていないというヤカラが多いので始末に悪い。あれっ、犬も気づいてないかも。

とにかく、その条件反射的なものの典型例が前に書いた拝金主義で、金=幸福とすりこまれてしまったために、実際に幸福になる要因がなくても金さえ手に入れば幸福を感じてしまうわけである。しかもパブロフの犬の場合はベルがなってヨダレを出しても、結局食べ物がなければいつかはだまされたことに気づくが、拝金主義の場合は信じ込むことが、そのまま幸福につながるから始末に悪い。

いやしかし、金をしこたまためてハッピー♪というのは、まわりが迷惑なエグい金儲けをしないかぎり、実害はないかもしれない。もっと困るのはこの条件反射が個人レベルではなく、社会的な制度になってしまった場合だ。典型例が「努力=結果」という図式である。もともと努力というのは結果を出すためにするものなのに、なんの結果がなくても努力自体が評価されてしまうことって、よくありませんか? (「良くありませんか?」じゃなくて「頻繁にありませんか?」です。ニホンゴムツカシイデスネ。)

たとえば、そろそろ大学3年生が就職活動をはじめるころだが、そのときの履歴書などの書類は往々にして手書きが要求される。しかも具体的に「履歴書は手書きのこと」と指示されるわけではなく、なんとなく社会常識で手書きじゃなけりゃ、みたいな感じ。これは書く方にとってはかなりの手間だし、読む方もワープロ印刷のほうが読みやすく、だれの得にもならない。しかし、本来はなんの効果がなくても「御社のために努力しました」ということが評価されるため、社会的条件反射によって実際に就職できてしまったりするから手に負えない。

今年も数多くの大学生の貴重な青春の時が、まったく無意味な履歴書書きに費やされるだろう。このような問題は、多分、一朝一夕には解決しないだろう。少しでも多くのひとがベルだけでは腹はふくれないことに気づいて、自分のできる範囲で少しづつ努力するしかない。たとえばあなたが会社の人事担当なら、応募要項に「履歴書はワープロ書きのこと」と書くか、あるいはウェブページから入力できるようにすれば、徐々にだが状況は改善されるだろう。

ナカムラも微力ながら「努力=結果」という条件反射をたちきるために、できることはやろうと思う。ということで、「授業は全部出て、一番前にすわってノートとってます」というのは全く評価しない。重要なのは授業の内容を理解したかどうかであり、レポートなりテストなりの結果がすべてである。今、ナカムラの講義のレポート書いている学生の諸君、健闘を祈る。

2014年1月10日金曜日

われわれは21世紀を生きているのか?

21世紀といえば Schizoid Man だが(一部のひと以外には意味不明なので無視してください),われわれの生きているこの世紀は本当に21世紀なのだろうか? いや,本当に21世紀であって悪くはないのだが,1900年代が20世紀で2000年代が21世紀って,ちょっとすわりがわるくないですか? 実はこれはゼロ世紀というものが存在しなくて,紀元1世紀の前は紀元前1世紀だからである。さらになぜゼロ世紀がないかというと,紀元ゼロ年というのがなくて,紀元1年の前がいきなり紀元前1年になっているからである。本来ならば紀元0年から99年までをゼロ世紀,100年から199年までを1世紀,というぐあいに決めていれば2000年代の現在は21世紀ではなく,20世紀になっって合理的だったはずである。そうすればグレッグ・レイクは「Twentieth Century Schizoid Man!」と歌っていたはずだ,一拍余るけど。

しかし,西暦が考えだされたときは「ゼロ」という概念がなかったので,いまわれわれが使っているような,ちとおかしいシステムになってしまったわけである。たとえば,「西暦3年の5年前は?」と言ったときに 3 - 5 = -2 で紀元前2年になるかと思えば,ゼロがないので紀元前3年なわけである。(ところで,Wikipediaをみてみると,西暦ができてから,紀元前という考え方が広まるまではずいぶんと時間がかかったのですね。)

それは数学的にまちがっておる,ちゃんとゼロ年をもうけて,今が21世紀になるように修正すべきだ,そして今年は2013年になるべきである,と考えるのはあながち間違いではないかもしれない。しかし年号のシステムを変更するというのは多大な労力と混乱をともなうし,一部の歴史学者以外は紀元後と紀元前をまたぐ年数計算なんてほとんどしないだろうから,それほど不便ではなかろう,ということで今は21世紀になっているのだと思う。こういうのは結構あって,たとえば時間を12進法と60進法のごちゃまぜで使うのではなく,10進法にすればすっきりするのだが,まあ,今のままでも不便ないのでよかろうということで使っている。

ところで,上で「数学的に間違っておる」と書いたが,それは本当だろうか。「3 - 5 が -2にならないのなら,あきらかに間違いだろう」という前にちょっと考えてみよう。計算法則というのは,3 - 5 = -2 となるものだけに限られるのだろうか? いや,そんなことは全く無い。上ででてきた時間なんかがいい例で,たとえば午前3時の5時間前はマイナス2時かというと,そうではなくて10時である,つまり 3 - 5 = 10 という計算法則を使っているわけだ。

そもそも,数というものは現実の諸問題に適用して生活を便利にしようということから開発された抽象概念であり(これについてお暇なかたは末尾にリンクのある以前の文章などごらんください,いちばん下のやつ),適用する対象によって,ちがう計算法則が用いられても不思議はない。必要なのはだれがいつやっても同じ結果になることと,その計算法則内で矛盾がないことだけである(と思う,他にあるかな?)。

だから,西暦も「プラス1の前がマイナス1で,プラスマイナスをまたいで引き算するときは結果に1を足して」みたいな計算法則をもった数と考えることができる。「数」というのを学校でならう整数とか実数とか以外に使うのに抵抗があるなら「数学的構造」とでも呼んでおけばいい。実際,曜日の月火水…などは数と認識せずに使っているが,それなりに演算規則をもってる数学的構造とみることもできる気がする。下にリンクした文章にも書いたが,月の名前を日本では1月,2月というぐあいに数であらわすが,英語ではJan,Febというぐあいに専用の単語があったりする。しかし,Aug - Jan = 7 という具合に明確な演算規則が存在するので,これも数または数学的構想と言ってよかろう。

ということで,この話題を書き始めるとたくさんネタがあるので,続きはまたいずれ。しかし前回も同じようなこと書いて終わってたなあ。

今回の話に関係ありそうな,前に書いた記事など

うーむ。この手の話題をはじめに書いたのは10年以上も前になるのか。


最後に,今日の話題に関係あるようでないようなトリビアをひとつ。知ってた?

2014年1月1日水曜日

ペペロンチーノ

この前,友人とパスタを食べにいったときに,ナカムラがペペロンチーノを注文すると,友人は「ペペロンチーノって原価めちゃやすいでしょ,損した気にならない?」と言った。ナカムラはこれは二重の間違っていると思った。

まず,第一は材料の原価が安ければ,払う対価も安くなければならないという考えである。イタリア料理店をやっている知人にきくと,ペペロンチーノは材料がシンプルなだけに腕の良し悪しで味に大きく差がでるので,気合をいれてつくるそうである。つまり,美味しいペペロンチーノの場合は,作り手の腕という付加価値にお金を払うわけだ。とすると原材料だけでは価値が判断できないのがわかる。あの有名なモナ・リザだって,キャンバスと絵の具の値段は微々たるものでしょ?

もうひとつの間違いは,値段にみあうだけの料理を食べれば,自動的に幸せになれるという考えである。いくら高給食材を使っても,嫌いな食べ物だったら幸せにならない。 たとえばイクラが嫌いだったら,イクラ丼がめちゃ安くても,「高級品がこの値段っで提供されてラッキー」とかいう具合に幸せにはならない(微妙なシャレに気づいた?)。そこのパスタ屋にあるメニューのなかで,ペペロンチーノが一番食べたいものであったら,原価とか気にせずに食べるのが幸せのはずだ。

…と思う? 二番目の点については,実はそう簡単にいかないのではなかろうか? つまり,「好きなものをたべて美味しい!」という幸せもあるが,「ああ,こんな安い値段でこんな高級なもの食べられて幸せ!」というのもありではなかろうか? 現代人の多くは幼少のころより,貨幣価値のたかいものを手にいれると幸せになるという経験をあまりに数多くかさねてきたので,パブロフの犬的条件反射が刷り込まれ,貨幣価値が高いと,本当は自分がそれを欲してなくても幸せを感じてしまうのである。だから,きらいとまでは言わないが,そんないに美味しいとも思わんものでも,高級品だとありがたがってしまう。ナカムラにとってはフグなんかそうだな。

そんな拝金主義はけしからん,原点にかえって,美味しいものをたべて幸せになるべきだ,と思わるかもしれないが,もう刷り込まれた条件反射はなかなか変えられるものではない。それに原点に帰ると,たべものの美味しいまずいだって怪しいもんじゃなかろうか? 多分,味覚というものは,もともと腐っているものや毒になるものを避けるために,進化の過程で発達してきたもので,美食を楽しむのは原点的目的からそれてるような気がする。たとえば,一度イクラをたべて食中毒になってから嫌いになって安全なイクラでも食べられなくなった,とかいうのは毒をさけるという目的からずれているのではなかろうか?

…などと,どーでもいいことをうだうだ考えながらペペロンチーノを食べるのが,一番損のような気もするな,と漠然と思いながら食事をするナカムラであった。