2014年1月1日水曜日

ペペロンチーノ

この前,友人とパスタを食べにいったときに,ナカムラがペペロンチーノを注文すると,友人は「ペペロンチーノって原価めちゃやすいでしょ,損した気にならない?」と言った。ナカムラはこれは二重の間違っていると思った。

まず,第一は材料の原価が安ければ,払う対価も安くなければならないという考えである。イタリア料理店をやっている知人にきくと,ペペロンチーノは材料がシンプルなだけに腕の良し悪しで味に大きく差がでるので,気合をいれてつくるそうである。つまり,美味しいペペロンチーノの場合は,作り手の腕という付加価値にお金を払うわけだ。とすると原材料だけでは価値が判断できないのがわかる。あの有名なモナ・リザだって,キャンバスと絵の具の値段は微々たるものでしょ?

もうひとつの間違いは,値段にみあうだけの料理を食べれば,自動的に幸せになれるという考えである。いくら高給食材を使っても,嫌いな食べ物だったら幸せにならない。 たとえばイクラが嫌いだったら,イクラ丼がめちゃ安くても,「高級品がこの値段っで提供されてラッキー」とかいう具合に幸せにはならない(微妙なシャレに気づいた?)。そこのパスタ屋にあるメニューのなかで,ペペロンチーノが一番食べたいものであったら,原価とか気にせずに食べるのが幸せのはずだ。

…と思う? 二番目の点については,実はそう簡単にいかないのではなかろうか? つまり,「好きなものをたべて美味しい!」という幸せもあるが,「ああ,こんな安い値段でこんな高級なもの食べられて幸せ!」というのもありではなかろうか? 現代人の多くは幼少のころより,貨幣価値のたかいものを手にいれると幸せになるという経験をあまりに数多くかさねてきたので,パブロフの犬的条件反射が刷り込まれ,貨幣価値が高いと,本当は自分がそれを欲してなくても幸せを感じてしまうのである。だから,きらいとまでは言わないが,そんないに美味しいとも思わんものでも,高級品だとありがたがってしまう。ナカムラにとってはフグなんかそうだな。

そんな拝金主義はけしからん,原点にかえって,美味しいものをたべて幸せになるべきだ,と思わるかもしれないが,もう刷り込まれた条件反射はなかなか変えられるものではない。それに原点に帰ると,たべものの美味しいまずいだって怪しいもんじゃなかろうか? 多分,味覚というものは,もともと腐っているものや毒になるものを避けるために,進化の過程で発達してきたもので,美食を楽しむのは原点的目的からそれてるような気がする。たとえば,一度イクラをたべて食中毒になってから嫌いになって安全なイクラでも食べられなくなった,とかいうのは毒をさけるという目的からずれているのではなかろうか?

…などと,どーでもいいことをうだうだ考えながらペペロンチーノを食べるのが,一番損のような気もするな,と漠然と思いながら食事をするナカムラであった。

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