2015年1月20日火曜日

分極ベクトルは必要か?

さて,前回のページで電場Eと電束密度Dの関係についてちょっとふれたら,さっそく前野さんからtwitterでつっこみがあって(注)で,近日中にもっと書きます,と返事をしたら,まだ宿題があるとの指摘が帰ってきた。あたたたっ,そういえば,去年に解析力学について書いたときに,前野さんのコメントに返事するといいながら,ころっとわすれてました。

実は前野さんにいただいたコメントに関してはナカムラの記述は間違いまくっており,しかしそれを正すうちに面白いことを見つけてそれを書かねば,などとやってるうちに時がすぎてしまいました。そして,さらに恐ろしいことに,そのとき考えた面白いことが,微妙に忘却の彼方にいってしまって,ああどうしよう,となっているのだが,とりあえずED問題について解説を書いたので今回はそれをご紹介します。ここを参考にMathJaxを使って数式を書いてるので,モバイル端末とかだと数式でないかも。

****

教科書などで電場Eと電束密度Dの関係を説明するときに、ほとんどの場合分子分極をもちだして、電流なり電荷なりを分極部分とそれ以外にわけて、という手順をふむ。こういうのを読むと、分極とそれ以外という区別は物理的になにか本質をついたものであり、電束密度Dも物理的実体であるかのようにな気分になる。それに対して,いくつかの教科書(代表はファインマン物理)では電束密度Dというのは計算を簡単にする数学的な補助場で,本質的なものはEひとつであるという立場で説明してある。しかし,ファインマンでも分極ベクトルPというものは使っていて,これを分子分極から導出している。

本当に分極ベクトルPというのは必要なのか? 実は分子分極とはまったく関係なくても分極電流というものを定義できる場合もある。たとえば(とかいいながら実はこの例しか知らないのだが)磁場中の無衝突プラズマを伝わる磁気流体波(MHD波)については、荷電粒子の磁場中の旋回運動から生じる電流のために、近似として媒質中のマックスウェル方程式と同じ形の方程式(磁場方向による非等方性はある)で記述することができ,アルフベン波という分散性のない電磁波がみちびかれる。この場合,分極電流はちゃんと存在するが,分極ベクトルPに対応する明確な物理的実体は存在しない。つまり分極ベクトルなしでも媒質中のマックスウェル方程式が書けるわけだ。

以下では,電場Eから分極ベクトルPを使わずに電束密度Dを定義しよう。まず,ファインマンと同じく,物理的な基本量は電場Eのみという立場をとる。自然単位系を使って,cとか4πとかμとかがでてこないようにすると,真空中のマックスウェル方程式のDはEでおきかえられる。ディメンジョンがちがうと思われるかもしれないが,普遍的な物理定数として適当なディメンジョンをもった比例係数があると考えればいい(このへんについては,実はもうすこし詳しい説明が必要かも)。

媒質の中を電磁波が伝搬しているような状況を考える。電磁波の電場が媒質の電荷に作用すると、その電荷に力がかかるので、なんらかの運動が生じる。で、この運動は電流になるわけだが、これをJと書こう。簡単のためこれ以外の電流はないとする。このJは電場Eが決まれば決まるわけだが、一般には過去の電場の値も影響したりするのでJ(E)のような単純な関数の形には書けない。

しかし、特殊な場合として、Jが電場の微分だけの関数としてJ(dE/dt)のように近似できるときもあるかもしれない、というか実際によくあってそれが誘電体なのだが。さらに電場があまり強くないときは線形の近似ができたりするとラッキーで、その場合は比例定数χを使ってJ=χ(dE/dt)とかける。これをアンペールの式に入れると、
$$
\nabla\times\mathbf{H}=\mathbf{J}+\frac{\partial}{\partial t}\mathbf{E}=\frac{\partial}{\partial t}\left(\chi+1\right)\mathbf{E}
$$
 となるが、ここで(χ+1)E=Dと書くと、Jを意識せずに真空中のマックスウェル方程式と同じような形になってすっきりする。以上の議論にPは使っていない。

ここまではなぜJ=χ(dE/dt)と書けるかは問わずに、書けたらラッキー、ということだったが、そのへんにある誘電体のミクロな物理を調べてみると分子分極の場PからDが導出できて、Pにもそれなりに意味があるということになるわけだ。しかしPは一般的には必要ではなく,これに対応する物理的実態が存在しなくても、J=χ(dE/dt)と書けさえすれば、媒質中の電磁場方程式はマックスウェル方程式と同じ形に書くことができる。

では、divDで与えられる真電荷とはなんだろうか? これも「もしJ=χ(dE/dt)と近似できればラッキー」という立場からすると、J=χ(dE/dt)と近似できなかったのこりの部分がつくる電荷と考えればいいと思う。分極電荷以外の自由に動ける電荷とか,マクロに平均するとどうこうとかいう定義は、実は定義でなく、近似できずにのこった部分を調べてみるとたまたまそうなっているというような性質だと思えば気が楽になる。

****

…と愚考するのですが,どうでしょう? 磁場についてもdE/dtのかわりに∇×Bを使えば同じ議論ができると思います。

(注)今回のタイトルを「ED問題」にするという誘惑にかろうじて勝った。引き返す勇気をほめて欲しい。

2015年1月17日土曜日

縦の平均と横の平均

数理系のひとなら「ド・モアブルの公式」というのを名前くらいは知っていると思う(注1)。ド・モアブルというのはフランス生まれでイギリスで活動した数学者なのだが,ニュートンの友達だったそうな。かの有名なプリンキピアを書いたときにニュートンが原稿を彼に見せたところ,一晩で読んで「興奮のあまり死んでしまわなかったのは運が良かったとしかいいようがない」と感動したという逸話を読んだことがある。

この話を読んだ時に心底うらやましいと思った。いま,自然科学分野で研究者をしているみなさん,興奮のあまり死んでしまいそうな研究にふれた経験ありますか? ナカムラは残念ながらそんな経験はない。せいぜい「ああ,面白いことを考えてるな」程度である。まあ,プリンキピアは,それで世界が変わるような出来事なので,それをはじめて読むような経験はおいそれとはないかもしれないが,それよりは小規模でも血湧き肉躍るような科学上の事件というものの目撃者(当事者なれたらもっといいが)になりたいものである。

で,過去をふりかえって,一番興奮した経験というのを考えるに,それは自分の専門のプラズマ物理ではなく,のちに「電磁気学を考える」という本になる内容の,今井功先生のセミナーを聴いた時である。このときナカムラはまだ大学院生で,同じキャンパスでおこなわれる他分野のセミナーなどにちょくちょく顔を出していたのであるが,そんななかの流体力学研究室のセミナーにたまたま顔を出してこの話を聴いたのである。ちなみに今井先生は10年ほど前に亡くなられた(1973年にでた「流体力学」の後編,でませんでしたね)ので,現実にお目にかかったのはことときだけだ。

なにに感動したかというと,電場・磁場があった場合のエネルギーと運動量を基本にすると,電磁気学のすべてが綺麗に導出されるという,普通の電磁気学とはまったく違った理論構成である。多分,神が電磁気学を設計なさったときはこう考えたに違いない,とそのときは思った。のちに相対論と微分形式を勉強して,ちょっと考えが修正されたが,基本的な評価はいまもかわってない。上述の本はもう絶版になって久しいが,もし,手に取る機会があったらぜひマックスウェル方程式を導出するところだけでも読んで欲しい。

さらに感心したのは,電場Eと電束密度Dの関係である。これはだれしも電磁気学を学ぶときに頭を悩ませる問題で,電磁気学を頻繁に使う研究分野にいても,イマイチ納得していないという研究者もいるはずだ。いや,過去にはすくなくとも一人はいた。ナカムラである(注2)。

今井電磁気学ではマックスウェル方程式を積分形で考える。するとEは線積分の対象であり,Dは面積分の対象なので,ミクロにごちゃごちゃした構造のあるEなりDなりを平均して,マクロでなめらかな値をだすときに,それぞれ線績分と面積分を使って平均してやらなくてはならない。今井電磁気学では,これを「縦の平均」,「横の平均」といって区別する。その平均の仕方の違いによって値は違ってきていいわけで,それがEとDの違いの本質なわけである。磁場Hと磁束密度Bの関係も同じだ。

これは納得,というのでナカムラは気に入っていたわけだが,のちにアブラハム・ミンコフスキー論争というのを知って,この「縦・横の平均」の考え方を使って,これが解決できるに違いないと考えた。アブラハム・ミンコフスキー論争とは,媒質中の電磁場の運動量がE×HなのかD×Bなのか,という問題で,なんと驚くなかれ,論争発生後一世紀以上たった現在でも,まだ未解決問題とされている(もうとっくに解決してるという意見もある。ちなみに解説はこれ,英語だけど)。

今井電磁気学の観点からこれをみると,運動量というのをマクロに定義するときの平均方法の違いが論争の原因で,そこを考慮してやれば…,考慮してやればその違いで…,あれ,うまくいかない! 実はナカムラは数年前,今井電磁気学の応用でこの一世紀来の難問を解決しちゃる,と意気込んで計算したのだが,どうしてもうまくいかなかった。

結局,なにがおかしかったかというと,縦・横の平均の違いでEとDの違いを説明するという話自体が間違っていたのである。実際計算してみると,普通に性質のいいランダムさをもったミクロな構造を平均すれば,縦でも横でも,つまり線積分をつかっても面積分をつかっても,同じ値になるということで決着した。生前に今井先生に会ったことのある友人にきくと,本人もあとになってこのことには気づいていたらしい。

げげ,だまされた,トマス・ヘンリー・ハックスレイの言う「つまらなく些細な事実によって葬り去られる美しい理論」というわけだが,それでも,ナカムラにとって今井電磁気学の魅力はいささかも色あせない。実は,ほかにも今井電磁気学の中には間違いがあって,一部ではトンデモ扱いする物理学者もいる。しかし,いくら間違いがあってもその考え方が奥深い理論というのは,チャラくて正しいものより,はるかに魅力的なものであろう。

このページはtwitterで電磁気学の話題がでたときに,今井電磁気学にふれたのがきっかけで書いたのだが,そのときにナカムラが投稿したtweet(これ)を転載しておく。
マイルス・デイビスがウエストコースト派のミュージシャンを評して「あいつらは演奏能力も音楽性もすばらしい。でもおれが気に入らないのは,あいつらが演奏中間違えないところだ。間違えないということは音楽をクリエイトしていないってことだ」と言ったそうな。今井電磁気学を読むとこれを思い出す。
(注1)このページを書くために調べるまで,ナカムラが「ド・モルガンの法則」と混同しておったのは内緒だ。
(注2)今は実は納得している考え方がある。次回,このblogに書く予定である。

2015年1月13日火曜日

Steppin' to the Bad Side

あなたに,めちゃくちゃ好きな異性ができてしまって,むこうもまんざらでもない感じ,ところが相手にはすでに配偶者がいて,去年はやった「昼顔」のような状況になったとしよう。あるいはこの曲とか。で,密会をつづけるうちに,ある日,相手が「絶対ばれない方法があるんだけどあいつ(配偶者)を殺してくれない?」と言ったら,どうします?

まあ,これはひとによりけり,あるいはどれくらい相手に入れこんでるかという状況にもよるだろうけど,どうしてもゆずれない自分の強烈な欲望があって,それが著しく道徳に反する場合,どうするかっていうのは難しい問題だと思う。死ぬほど愛していて,彼もしくは彼女なしの人生なんて生けるシカバネ同然というような場合はどうするだろう?

いや,実は昨今の科学捏造疑惑に関連して,この記事を読んでこんなことを考えたのであるが,自分が生命科学分野の研究者の卵,あるいはカケダシの研究者で,研究者として生き残るためにどうしても捏造をせざるを得ない状況にあったらどうするだろう,と思った次第である。生命科学のような研究分野の魅力は抗いがたい(注)ものがあり,研究を一生続けることができるのと,それをあきらめてさほど好きでない全く別の仕事に就職するのは,人生の楽しさがまったくちがってくるのではないかと思う。

実際,ナカムラは幸いにもそのような分野のひとつである物理の研究職こつくとができたが,そうでない人生を想像するとぞっとする。自分の好きな研究を自由にできるって,本当に幸せなことです。とくに過去をふりかえると結構あぶなくて,30過ぎて一時無職だったりしたことがあるから切実。もちろん,研究以外の人生だって,それなりに楽しいことはあるはずだが,それと研究を愛することはまた別問題。不倫はいかんということで,好きな異性とわかれてもそのうち立ち直れるというのと,その相手がめちゃくちゃ好きというのが別問題だというのと同じだ。

幸いなことにナカムラの嗜好は物理の理論的な仕事だったので,捏造したくてもする余地がない。論文に計算が全部書いてあるので,だれでもあとを追って確かめられるのだ。そして確かめた結果,計算間違いしとるやんけ,というのはたまにあるが,いや,実は頻繁にあるが(涙),しかし,よこしまな心の入り込む余地はない。身の潔白を簡単に主張できるわけだ。よかった。

ところが,もし,ひとりで実験していて,これがうまく行かないと業界で生き残ってはいけない,みたいな状況に追い込まれたらどうだろう。いや,「いかに不利でも私は悪魔の誘惑には負けない!」という個人の決断ができる場合はまだいいが,研究室のボスが水戸黄門か大江戸捜査網に出てくる悪代官みたいなやつで,「おぬしも,ここで生きていきたいなら,わかっておるじゃろうな?死してシカバネ拾う者なし,ふっふっふ」みたいに言外に捏造を指示してきたら?

ノーと言えば確実に将来はないし,研究室の先輩も,そこを上手くやってボスの紹介でどこかの大学の研究職についてるし,とかいう場合はこの判断はなかなかキビしい。さらに,業界の常識である程度は「色をつける」のが暗黙の了解になっていて,どこまでグレーゾーンかわからなくなっているような状況だと,思わず手を染めてしまう誘惑は大きなものだろう。自分の正義に従って研究をはなれ,砂をかむような味気ない人生を送るか,steppin' to the bad sideで研究者になって禁断の甘い蜜をなめるか。あなたならどうします?

自分だったらどうするんだろうなあ,と考えると,結論は「あー,そういう業界じゃなくてよかった!」

(注)ところで,まったく本題と関係ないが,ナカムラはこの文章をかくまで「抗いがたい」というのを「あがらいがたい」と読んでいた。変換できないから気がついた。日々これ勉強ですね。