2014年8月7日木曜日

自慢

最近,自転車にはまっていて,月に500km走ったぜ,とフェイスブックで自慢したら,ある人から「リア充自慢」といわれた。いや,自慢は自慢なんだけど,自転車でたくさん走ったくらいでリア充になれるなら,1000kmでも走っとるわい,と思ったのではあるが閑話休題。

こういう他愛のない自慢というのはだいたい体力ありまっせ,とか,教養あるでしょう,みたいな能力をほこるものである。または金もってますよ,とか。これはなんとなく理解できて,なにかができるとかなにか持ってるということは,太古の昔から生き残りに有利なわけで,それを自慢するというメンタリティーが長い生存競争の歴史の中で生じてきたのは想像に難くない。

しかし,不思議なのは,そういう能力とはぜんぜん関係ない自慢というのが存在することだ。ナカムラがいつも感じるのは「肩こり自慢」である。これは肩のこらないひとにはわかりにくいかもしれないが,とにかく肩をもんでもらって「うわー,こってますねえ」と言われると,なんとなく偉くなったような気になるのである。

ナカムラは肩こり症なので,よくプロのマッサージをお願いするのだが,「力加減はどうですか?」と聞かれて「あ,結構こってるのでもっと強くおねがいします」というときのなんとなく誇らしげな自分の感情をいつも不思議に思う。で,マッサージ師が力のある若いお兄さんだったりすると,むこうも心なしか挑戦的になって「これでどうですか?」と強力に責めてきたりして,強すぎて痛いと思っても「あ,もうちょっとおてやわらかに」というのは,なぜかプライドが許さない。脂汗をながしながら「あうっ…,きもち,…,いいですっ…」などと答えるのだが,なんのために高いマッサージ料金をはらっているのかわからなくなってくる。

友人にこの話をすると「それは,たくさん働いたから肩がこっているという,仕事自慢じゃなかろうか」と言うのであるが,仕事なんかぜんぜんしてなくても肩はこるし,ナカムラはたくさん仕事しました自慢は嫌いなので,それとはなにか違うと思う。病気自慢なんかに近いものがあるのだろうか。

もうひとつ,ナカムラが感じる意味のわからん自慢意識は「めちゃ辛いカレーが好き」というのだ。これもなんの得にもならないのだが,「ココイチの4辛くらいは平気」と言った相手が「へー,俺は2辛でも無理っす」とか言おうものなら,なぜか勝ち誇った気分になる。考えるにこれは不思議な感情で,香辛料で辛い,いわゆるスパイシーなものは自慢の対象になるが,ほかの味覚,たとえば酸っぱさなんかについては,あまりそういうことはないのではなかろうか? 「レモン汁一気飲みしてやったぜ」とかいうのは自慢になりにくい気がする。

ただ,この自慢的気分は個人差が大きいようで,上に書いたようなことが全く共感できないというひとも結構いるようだ。逆に,友人にこの話をしたときに,目の悪い彼は「低視力自慢ってのもあるな」と言ったが,ナカムラにはこれはあまりピンとこない。

…と,ここまで書いて,ありゃ,ひょっとしてこの話題って以前書いたかも,と思ったのはtwitterで以下のようなやりとりがあったからなのだが,
不安になって検索してみても,上位にはヒットしなかった。というわけで,そのうち記憶力なくなり自慢もするようになるのかなあ,などと思いながらこの記事も公開しよう。


ところで,前々回,解析力学に関する記事を,これもいささか自慢気に書いたのだが,これに対してirobutuこと前野さんからいただいたコメントにまだ返答を書いていない。いや,実は考えだすと真に驚くべきアホな間違いがいろいろと見つかって,さらに間違いを正していくうちに面白い進展があって,という状況なので前野さん,もう少しまってください。


2014年7月19日土曜日

早稲田・小保方問題

ナカムラはtwitterを使っているのだが,一昨日の昼過ぎからタイムラインが小保方博士号に対する早稲田の対応関連でわきかえって大変なことになっている。「小保方」+「早稲田」などのキーワードで検索してもらうとわんさかヒットするのだが,たとえばこんな感じである。

実はナカムラは,このような話題をネットで扱うのは意図的に避けているところがあり,小保方疑惑が浮上した時から,twitterやfacebookなどでこの件ついてほとんど言及していないと思う。これは理由があって,つまり,当事者でもない者がネットやマスメディアの情報だけで悪者批判をするのがあまり好きではないからだ。しかし,今回の早稲田大学の対応については,科学というものを職業にしている以上,なんらかの意見表明をすべきだと考えてこれを書いている。つまり,自分も広い意味での当事者になると思うからだ.いつになく真面目タッチなのはそのためである。

ナカムラのみた範囲で,ネット上で反応した科学関係者は,ほぼすべて「こりゃ全然ダメだ」というものだったが,「博士号の授与決定権は早稲田大学にあるのだから,どう決めようといいではないか」というようなごく少数の意見もあった。これはこれで正しい意見で,博士号についての決定は大学の権利であり,どう決めようと早稲田の勝手である。ただし,公的機関である大学がその権利を行使したからには,その結果について種々の論評をされるのは当然の帰結であり,それでタコ殴り状態の批判をあびるのなら甘んじて受けるべきである。つまり博士号剥奪をしないのも,それに対してタコ殴り批判をするのも,両方とも正当なことだと思う。

というわけで,このページでタコ殴りの末席に連なるわけだが,自分が思うようなことはたいていどこかででていて,たとえば上でリンクしたページのtwitterの反応などをみていただきたい。あるいは検索すれば大量にヒットする。では,なぜわざわざこんなページを書いているかというと,「こりゃ全然ダメだ」という意見をもつものがここにも一人いるという表明である部分が大きい。つまり,上でのべたように博士号に関しての決定権は大学にあるが,その決定に対する反対意見がこんなにたくさんありますよ,というのは重要なことだと考えるからである。みんなもだまってないで意見表明しよう。このページのように個人blogで小数の読者しかいなくても,そういうページがたくさんできると多くのひとに広がると思います。

ひとつふたつ補足しておくと,小保方氏本人より早稲田の対応のほうが,はるかに問題だと思う。科学といえども人のいとなみである以上,研究上不正を行うものを根絶するのは無理で,これは如何ともしようがないのかもしれない。「世に盗人のたねはつきまじ」である。問題はそれが発覚した時にちゃんと自浄作用がはたらくような体制になっているかどうかであろう。早稲田がなぜ博士号剥奪をしないかについては,いろいろと取り沙汰さてているが,とにかく,このままでは全くもってまずいと思う。

もうひとつ,ナカムラが目にするネット上の意見の多くはいわゆる「コピペ」を問題にしていたが,それよりも科学的に虚偽の記述があることのほうが深刻ではなかろうか。たしかに剽窃は科学者倫理からすれば完全にアウトだが,事実でないことを論文にするほうがよっぽど罪が大きい。たとえば実験結果です,といって企業のウェブサイトからとった画像を載せていたというのが本当だとしたら,とんでもないことである。

最後に大学業界以外のひとが誤解するといけないので書いておくと,大学というのは企業のように全体で統一された意思決定をするわけではなく,百貨店のような学科単位あるいは研究室単位の自営業の集まりみたいなものである。したがって,今回,早稲田のあるセクションが「全然ダメ」ということになったとしても,ほかにちゃんとしている早稲田の研究者のほうがはるかに多いということを理解してほしい。そして,早稲田のまともな研究者のみなさんは,あらゆるチャンネルを通じて不服申し立てをしてほしい.

付記(7月21日)
このページを公開後,早稲田大学で働いている知人から「大学としての決定はまだで,これから報告書を元に先進理工研究科の議論,必要なら全学の研究科長会の審議を経て,決定されると説明されています」と知らせていただいた.報告書をうけた上層部の英断を期待する.

2014年7月7日月曜日

変分法でオイラー・ラグランジュ方程式を出すときに端点の条件は必要か?

また更新が滞ってしまった,ひさびさに書きます。先日,解析力学の計算をしていて,ちょっと疑問なことがあって,twitterに書いてみると,あっというまにその筋の碩学からコメントがたくさんついて,ナカムラが席をはずしている間にあっさり解決してしまったということがあった。で,せっかくだからとtogetterにまとめたら,これにもさらにコメントをもらったりして,なんというか便利な世の中になったものよのう,と思ったわけである。そのうちSNSを介した共同研究とかいうのが普通になったりするんじゃなかろうか。

で,その内容だが「変分法でオイラー・ラグランジュ方程式を出すときに端点の条件は必要か?」(togetterへのリンク)というもので,たいてい(ナカムラがみた範囲ではすべて)の力学の教科書に書いてある,とある方程式を導出するときに使う条件が,実はなくてもいいのではないか,という疑問であった。碩学の意見の一致するところによれば,この条件は全体の理論構築には重要なのではあるが,その方程式の導出という部分では確かに必要ない,ということである。うーん,学生のころになんの疑問もなく受け入れていた話でも,よく考えてみればこういうことにも気がつくのであるなあ,大人になるとはこういうことかと感慨にひたった次第である。

そして,さらに驚いたのは,このtogetterが結構多くの人に読まれているということである。今日(7月7日,七夕だ!関係ないけど)見たら3630viewもされている。びっくり。いや,たとえば相対性理論だとかブラックホールだとかの“人気アイテム”だといろんな人が興味をもってくれそうだが,解析力学などという地味な話題でもそれなりに読んでもらえるものだなあ,と思った。


それとは別にいつもあるよなあと思ったのは,この経緯をtwitterなどで見た物理とは関係ない友人何人かから「なに言ってるかさっぱりわからん」という感想をもらったことである。これは,昔から物理関係の仕事内容を同業者以外にみられたときにくる定番の反応で,物理や数学で食っているひとのほとんどは経験したことがあるのではなかろうか? しかし,考えてみると不思議なことで,たとえば音楽の経験のない者がプロのピアニストにむかって「わたしにはさっぱり弾けません」とは普通言わないだろう。

つまり,その道のプロがかなりの努力と年数をかさねて獲得した商売上の技について,普通なら素人がそれをできるかどうかなど考えないのだが,物理とか数学(ほかの学問でもあるのかな?)に関しては「さっぱりわからん」と言ってしまうわけである。こちとら長年の修行でやっと身につけたワザなんだから,簡単にわかってもらったら困るんだが,といつも思う。いや,別に不愉快に思っているわけじゃないのですが,どういう心理からそのような反応になるのか考えると面白い。たとえば医者の手術とか,棋士の将棋とか,いろいろなプロの技に対して内容によってリアクションの性質が違うとすれば,なぜなのか考えるのはなかなか興味深い話ではある。

ということで,もとのtwiter上での議論にもどるが,この問題に気がついたのは変分法で停留値を求めるプロセスを多変数に拡張したらどうなるか,ということを考えていたからである。変分法を汎関数微分で書くと,ある点での変分はデルタ関数を含むようになるので,境界の値は関係なくなるのではなかろうか,と思った次第である。うーん,さっぱりわからん。

*)この多変数の変分法に関してメモを書いたので,興味のある方は読んでコメントをいただければ嬉しいです。togetterの内容とは直接関係はありません。間違いなどあったらご教示のほどを。

2014年4月1日火曜日

4月論文

今日は4月1日である。「エイプリルフールで嘘をついていいのは午前中だけ」という話をきいたが,これの根拠がイマイチわからなくて,この説自体エイプリルフールの嘘ではないか,という説がでているそうな。しかし,それもエイプリルフールの嘘では…(以下略)。

ということで,エイプリルフールの話題の前に,例のSTAP細胞事件について。「STAPってなに?おいしいの?」という方は賢者ググレカスに相談してください。で、例の論文のデータがどうもあやしいという話をきいたときに,不思議に思ったひとも多いのではなかろうか? だって,超一流の科学雑誌に掲載されて「ノーベル賞級」とさわがれる内容だと,多くの研究者の目にとまって,だれかがすぐ追実験をして,同じ結果がでなければすぐにバレるのではなかろうかと思うわけだ。そういう論文をわざわざ発表するだろうか?

以下は件の論文になにか不具合があるという前提のもとの,まったく無責任な推測なのだが,ナカムラの思うに主著者たちは実験結果がイマイチでも,本気で万能細胞ができた,あるいはこの路線で行くと近い将来できると考えていたのではなかろうか。きくところによると刺激によって万能細胞をつくるというアイデアは結構昔からあるらしく,理研のグループの専売特許ではないそうな。ということは,もし,うまく行きそうな手法をみつけたら,一刻もはやく「つば」をつけとかないと,他のやつに先をこされるかもしれない。研究業界は、それこそ「二番じゃなめなんですか」という世界で、評価されるには一番乗りが最重要なのだ。

先日読んだ「4%の宇宙」という本では,宇宙加速膨張の証拠をつかんだグループのメンバーが,まだデータ数が少なくて確証がもてないのだが,それでも発表すべきかどうかで激論するシーンがある.ライバルグループに先をこされそうだったからだ。この本によると彼らはあきらかにノーベル賞を視野にいれて,しのぎをけずっていたのである(結局,ノーベル賞は両方のグループでわけた)。こういう状況は悩ましいだろうなあ.もし当りなら大当たりなわけだが,はずれならば大恥をかくことになる。いや今回のSTAP細胞事件は大恥ではすまないことになりそうだ。

ということで,科学者たちは,はずれた場合の傷をなるべく少なくしようという工夫をするわけだが,これがエイプリルフールである,あ,話題がもどってきた。つまり,論文の投稿を4月1日にして,当たればそのまま大きな顔をして,はずれた場合は「いや,エイプリルフールでんがな,てへっ」とばっくれるのである。これはかなり分野によってちがうが,なかには「4月1日受理の論文は信頼度がひくい」というのが暗黙の了解という業界があったりする。そういう分野では,論文を読む時にまず受理日をチェックするそうな。

そういう「4月論文」で有名なのが、1993年にノーベル賞を受賞したH.ロムッテロのいわゆる「ロムッテロ効果」の論文である。彼は「もう少し実験を続けて確証を得てから発表するべきだとわかっていたが,とりあえず先取権確保のためにレターペーパー(速報論文)を書き、編集者にたのんで受理日を4月1日にしてもらった」と受賞記念パーティーのスピーチで語っている。勝てば官軍ということですね。こういうノーベル賞までいった大発見はまれだが,ちょっと自信のない論文発表の時期がたまたま春だった場合,受理日を4月1日にするのは広くおこなわれているらしい。アメリカの一般向け科学雑誌Scientific American(日経サイエンスのネタ元)が2003年に主要科学論文誌1000誌を対象に行った調査によると,4月1日が受理日になっている論文の数は他の日に比べて約1.6倍多いという結果になったそうだ。

というわけで賢明な読者諸氏はもう気づいたと思うが、この記事は4月1日の午前中に書かれている。まさか「ロムッテロ効果」とか信じたひとはいないでしょうね。

2014年3月6日木曜日

アンドロイドはグーグルグラスの夢をみるか?

ということで(どういうことだ?),いま,一部で話題になっている人工知能学会の雑誌の表紙問題について。よく知らない方はリンク先が手短にまとまっているので,ご覧ください。前号の女性型アンドロイドの表紙についての賛否の意見はいろいろあって,女性差別はいかん,いや,これくらいでカリカリするな,いやいやなにを言っとる“これくらい”と潜在意識的に差別するのがけしからんのじゃ,いやいやいやアンドロイドが女性であるというだけで差別というあなたの心のなかに本当の差別があるのです,などと,まあ予想される展開になっている。ナカムラは,これについてはとくに強い意見はないが,ある程度公的な出版物なら不快に感じるひとがいる表現は避けたほうがいい,という程度のことは思う。あと,この件に限らず自分と違う意見のひとに対して,喧嘩腰になるのはよろしくないと思います。

それに対して,「アンドロイドの視点から」として描かれた最新号の表紙についてはきわめて問題ありだと思う。その理由は女性差別とはまったく関係なく,アンドロイドが光を感知するデバイスから情報を得てるときに,この表紙のような絵柄はどの段階でも存在しないだろうということだ。だって,このような絵柄はたとえばグーグルグラスのような人間向けのヘッドマウントディスプレイでしか意味がない。視覚をはじめとする人間のインターフェースが極めて限られているため,しょうがなく必要な情報を視覚情報に重ねて表示しているだけなのである。

以前にどっかで(って多分このblogしかないが)書いたが,映画“ターミネーター”でのシュワルツェネッガー扮するアンドロイドの視点から写したシーンはおかしい。画面の端のほうに「敵の数**名,死者数**名」みたいな文字が出てくるのだが,他のセンサーで感知した数値情報をわざわざビットマップで文字の図形に変えて視覚情報に重ねて書くなんてありえないだろう。いきなりCPUにインプットすればいいのだ。

と考えると,もしアンドロイドならこの表紙の絵のような認識ではなく,… このような絵柄ではなく,… あれ,どうなるんだろう? 真面目に考えると空間図形を認識するというのはどういうことか,というなんやらわからん問題を深く掘り下げなければならなくなるような…。いま,あなたと私が見ている三角形が,あなたと私の脳の中で同様の表象であるという保証はどこにあるのか,というハイパーむつかしい問題とか,からんできそうだ。

たとえばSFでよくあるように,「げげっ,他人の体に自分のこころが乗り移ってしまったっ!」なんてことになったときに,ちゃんと世界が認識できるのか,なんて疑問がでてくるのだが,これはできない可能性が大きいと思う。いや,だめでしょう,だって,たとえばある程度相談して互換性が有るように規格をつくったコンピューターの画像情報ですら,gifとかpngとかjpegとかいろいろあるのに,人間の場合は互換性をとるなんて考えてないのだから,目からの情報を人それぞれ違うように処理しているのではなかろうかと思われる。

うーん,そんなところまで考えてるとすると,この表紙は人工知能的に奥深い。恐るべし人工知能学会。

2014年2月4日火曜日

断片的な,あまりに断片的な

子供のころ,兵庫県に住んでいたので,親がときおり有馬温泉につれていってくれた。“有馬ヘルスセンター”という温泉施設に行ったときに,母に「おかあちゃん,“ヘルス”ってなに?」と聞くと「“健康”って意味よ」と教えてくれた。それからしばらくして,アメリカの暴走族“ヘルスエンジェルス”(Hell's Angels)の殺人事件を知って,その意味は“健康天使”なんだと思った。たぶん,高校あたりまで勘違いしていたと思う。とっても凶悪なやつらなのに,カワイイ名前だなあ,と思っていた。

* * *

もう何十年も前の学生のころ,乗っていた地下鉄が事故か何かで緊急停止して,駅と駅の間で5分ほど止まっていたことがある。窓の外をみると,車両の照明でコンクリートむき出しのトンネルの壁が見えた。暇なので見るともなしに眺めていると,水の染み出しかなにかで出来たシミがムンクの“叫び”のような顔に見えてきた。地下鉄が止まっているしばらくの間そいつをずっと見ていると,なんとなく愛着みたいなものがわいてきて,車両が動き始めたときに「もう会うことはないけど元気でな」みたいな感じの感情を持った。全くの偶然がいくつも重なって,地下鉄が止まっていたわずかの間だけ会えた奇妙な友人である。いまもあそこにいるのだろうか,ときおり思い出す。

全くの偶然がないと絶対に会うことがなかった,というようなものに妙に憧れる。知らない土地に行って時間が余ると,まず一ケタの数字を決める。たとえば通り過ぎた車のナンバーだとか,たまたま目にした看板の数字だとかの最後の一ケタを使うことが多い。そして,地下鉄だとかバスだとかに乗って,その数だけ先に行った駅で降りる。あるいは車なら高速道路のその数だけ先の出口で降りる。で,あたりをうろうろするわけだが,偶然から生まれた驚きの出会いにいつも感動する … なんてうまいことはほぼなくて,退屈な街の退屈な日常しかないことがほとんどだ。でも,通り過ぎる歩行者だとか平凡な家並みとかが,全くの偶然がないと決して見ることのなかったものであり,そして今後二度と目にすることもないだろうと思うと,結構楽しい。


* * *


大学院の修士の頃,四畳半一間,トイレ共同風呂なしの下宿に住んでいた。向かいの部屋は高齢の女性がひとりで住んでいて,あまり親しくはなかったが廊下であったら挨拶などはしていた。なにをして暮らしているのかは知らなかったが,買い物などに出かける以外はほとんど部屋でテレビを見ていたと思う。彼女は人相を覚えているわけではなく「向かいの部屋に住むあんちゃん」ということで,こちらを個体認識しているみたいだった。道で歩いているときに挨拶しても怪訝な顔をされた。どうやら創価学会の会員だったらしく,都議選などが近づくと「これ,たくさん作りすぎてあまったから」と言ってテンプラなどをわけてくれて,それとなく公明党に投票するようにうながされた。テンプラをたべながら「もちろん,入れますよ」と言うと嬉しそうだった。もちろん,公明党には入れなかった。テンプラは味が薄くて,あまり美味しくなかった。


* * *


そのころ,女友達が「ただすくん,漢字で“あまくち”ってかいてみて,横書きで」というので書くと「なんか牛に見えない?」と言いながら,口の下に二本足を描いて“甘只”のようにした。
それから“甘口”は牛にしか見えなくなった。


* * *


この写真のような,切った爪がとばないツメキリで爪を切っていたら,



力を入れすぎてカバーがはずれて,この写真の状態のようになった。あいたたたたた,切った爪が飛びちりまくり。



そこで思ったのは,この状況を写真を使わずに説明するととっても大変だなあ,今は携帯電話にカメラがついて便利な世の中になったものよ,ということ。いや,そもそもblogみたいな情報サービスがないころには,そばにいる人以外にはこんなことを言うこともできなかったわけである。しかし,このような,激しくどーでもいいことを読まされるほうは時間の無駄,という考えもできるかな。まあ,文明による生活の向上というものはそういうものだ(ナンカエラソウニマトメテル)。

* * *

もう数年前になるが,ナカムラの大学に集中講義に来てくれた社会学者の方と夕食をとる機会があった。とても面白い話がいくつもきけて,めちゃくちゃ楽しかったのだが,かなり酔っ払ったころに,お互いにお互いのblogの読者であることが判明した。なかなか新鮮な驚きであった。ということで,実は今回はその方の最近の文章をちょっとまねして書いてみました。やっぱり本家ほどうまくはいかないな。

2014年1月19日日曜日

パブロフの努力

パブロフの犬というのをご存知だろうか? 外から見えない箱の中に犬をいれておいて、そのそばでベルをならすという実験をすると、犬がよだれを流したかどうかは箱をあけて犬を観測してみるまで決定されない、つまり、犬はよだれを流している状態と流していない状態との量子力学的重ね合わせの状態にあるという、量子論のパラドックスをカリカチュアライズした有名な思考実験である。あれ、ちょっとちがうな。まあ、正しくはネットで検索していただくとして、要するに条件反射である。

この条件反射というやつは犬畜生(愛犬家のみなさん、ごめんなさい)だけに起こるのではなく、人間様にもよく見られる現象である。さらに、人間の場合はまんまとベルにだまされてよだれを流しているのに、それに気がついていないというヤカラが多いので始末に悪い。あれっ、犬も気づいてないかも。

とにかく、その条件反射的なものの典型例が前に書いた拝金主義で、金=幸福とすりこまれてしまったために、実際に幸福になる要因がなくても金さえ手に入れば幸福を感じてしまうわけである。しかもパブロフの犬の場合はベルがなってヨダレを出しても、結局食べ物がなければいつかはだまされたことに気づくが、拝金主義の場合は信じ込むことが、そのまま幸福につながるから始末に悪い。

いやしかし、金をしこたまためてハッピー♪というのは、まわりが迷惑なエグい金儲けをしないかぎり、実害はないかもしれない。もっと困るのはこの条件反射が個人レベルではなく、社会的な制度になってしまった場合だ。典型例が「努力=結果」という図式である。もともと努力というのは結果を出すためにするものなのに、なんの結果がなくても努力自体が評価されてしまうことって、よくありませんか? (「良くありませんか?」じゃなくて「頻繁にありませんか?」です。ニホンゴムツカシイデスネ。)

たとえば、そろそろ大学3年生が就職活動をはじめるころだが、そのときの履歴書などの書類は往々にして手書きが要求される。しかも具体的に「履歴書は手書きのこと」と指示されるわけではなく、なんとなく社会常識で手書きじゃなけりゃ、みたいな感じ。これは書く方にとってはかなりの手間だし、読む方もワープロ印刷のほうが読みやすく、だれの得にもならない。しかし、本来はなんの効果がなくても「御社のために努力しました」ということが評価されるため、社会的条件反射によって実際に就職できてしまったりするから手に負えない。

今年も数多くの大学生の貴重な青春の時が、まったく無意味な履歴書書きに費やされるだろう。このような問題は、多分、一朝一夕には解決しないだろう。少しでも多くのひとがベルだけでは腹はふくれないことに気づいて、自分のできる範囲で少しづつ努力するしかない。たとえばあなたが会社の人事担当なら、応募要項に「履歴書はワープロ書きのこと」と書くか、あるいはウェブページから入力できるようにすれば、徐々にだが状況は改善されるだろう。

ナカムラも微力ながら「努力=結果」という条件反射をたちきるために、できることはやろうと思う。ということで、「授業は全部出て、一番前にすわってノートとってます」というのは全く評価しない。重要なのは授業の内容を理解したかどうかであり、レポートなりテストなりの結果がすべてである。今、ナカムラの講義のレポート書いている学生の諸君、健闘を祈る。

2014年1月10日金曜日

われわれは21世紀を生きているのか?

21世紀といえば Schizoid Man だが(一部のひと以外には意味不明なので無視してください),われわれの生きているこの世紀は本当に21世紀なのだろうか? いや,本当に21世紀であって悪くはないのだが,1900年代が20世紀で2000年代が21世紀って,ちょっとすわりがわるくないですか? 実はこれはゼロ世紀というものが存在しなくて,紀元1世紀の前は紀元前1世紀だからである。さらになぜゼロ世紀がないかというと,紀元ゼロ年というのがなくて,紀元1年の前がいきなり紀元前1年になっているからである。本来ならば紀元0年から99年までをゼロ世紀,100年から199年までを1世紀,というぐあいに決めていれば2000年代の現在は21世紀ではなく,20世紀になっって合理的だったはずである。そうすればグレッグ・レイクは「Twentieth Century Schizoid Man!」と歌っていたはずだ,一拍余るけど。

しかし,西暦が考えだされたときは「ゼロ」という概念がなかったので,いまわれわれが使っているような,ちとおかしいシステムになってしまったわけである。たとえば,「西暦3年の5年前は?」と言ったときに 3 - 5 = -2 で紀元前2年になるかと思えば,ゼロがないので紀元前3年なわけである。(ところで,Wikipediaをみてみると,西暦ができてから,紀元前という考え方が広まるまではずいぶんと時間がかかったのですね。)

それは数学的にまちがっておる,ちゃんとゼロ年をもうけて,今が21世紀になるように修正すべきだ,そして今年は2013年になるべきである,と考えるのはあながち間違いではないかもしれない。しかし年号のシステムを変更するというのは多大な労力と混乱をともなうし,一部の歴史学者以外は紀元後と紀元前をまたぐ年数計算なんてほとんどしないだろうから,それほど不便ではなかろう,ということで今は21世紀になっているのだと思う。こういうのは結構あって,たとえば時間を12進法と60進法のごちゃまぜで使うのではなく,10進法にすればすっきりするのだが,まあ,今のままでも不便ないのでよかろうということで使っている。

ところで,上で「数学的に間違っておる」と書いたが,それは本当だろうか。「3 - 5 が -2にならないのなら,あきらかに間違いだろう」という前にちょっと考えてみよう。計算法則というのは,3 - 5 = -2 となるものだけに限られるのだろうか? いや,そんなことは全く無い。上ででてきた時間なんかがいい例で,たとえば午前3時の5時間前はマイナス2時かというと,そうではなくて10時である,つまり 3 - 5 = 10 という計算法則を使っているわけだ。

そもそも,数というものは現実の諸問題に適用して生活を便利にしようということから開発された抽象概念であり(これについてお暇なかたは末尾にリンクのある以前の文章などごらんください,いちばん下のやつ),適用する対象によって,ちがう計算法則が用いられても不思議はない。必要なのはだれがいつやっても同じ結果になることと,その計算法則内で矛盾がないことだけである(と思う,他にあるかな?)。

だから,西暦も「プラス1の前がマイナス1で,プラスマイナスをまたいで引き算するときは結果に1を足して」みたいな計算法則をもった数と考えることができる。「数」というのを学校でならう整数とか実数とか以外に使うのに抵抗があるなら「数学的構造」とでも呼んでおけばいい。実際,曜日の月火水…などは数と認識せずに使っているが,それなりに演算規則をもってる数学的構造とみることもできる気がする。下にリンクした文章にも書いたが,月の名前を日本では1月,2月というぐあいに数であらわすが,英語ではJan,Febというぐあいに専用の単語があったりする。しかし,Aug - Jan = 7 という具合に明確な演算規則が存在するので,これも数または数学的構想と言ってよかろう。

ということで,この話題を書き始めるとたくさんネタがあるので,続きはまたいずれ。しかし前回も同じようなこと書いて終わってたなあ。

今回の話に関係ありそうな,前に書いた記事など

うーむ。この手の話題をはじめに書いたのは10年以上も前になるのか。


最後に,今日の話題に関係あるようでないようなトリビアをひとつ。知ってた?

2014年1月1日水曜日

ペペロンチーノ

この前,友人とパスタを食べにいったときに,ナカムラがペペロンチーノを注文すると,友人は「ペペロンチーノって原価めちゃやすいでしょ,損した気にならない?」と言った。ナカムラはこれは二重の間違っていると思った。

まず,第一は材料の原価が安ければ,払う対価も安くなければならないという考えである。イタリア料理店をやっている知人にきくと,ペペロンチーノは材料がシンプルなだけに腕の良し悪しで味に大きく差がでるので,気合をいれてつくるそうである。つまり,美味しいペペロンチーノの場合は,作り手の腕という付加価値にお金を払うわけだ。とすると原材料だけでは価値が判断できないのがわかる。あの有名なモナ・リザだって,キャンバスと絵の具の値段は微々たるものでしょ?

もうひとつの間違いは,値段にみあうだけの料理を食べれば,自動的に幸せになれるという考えである。いくら高給食材を使っても,嫌いな食べ物だったら幸せにならない。 たとえばイクラが嫌いだったら,イクラ丼がめちゃ安くても,「高級品がこの値段っで提供されてラッキー」とかいう具合に幸せにはならない(微妙なシャレに気づいた?)。そこのパスタ屋にあるメニューのなかで,ペペロンチーノが一番食べたいものであったら,原価とか気にせずに食べるのが幸せのはずだ。

…と思う? 二番目の点については,実はそう簡単にいかないのではなかろうか? つまり,「好きなものをたべて美味しい!」という幸せもあるが,「ああ,こんな安い値段でこんな高級なもの食べられて幸せ!」というのもありではなかろうか? 現代人の多くは幼少のころより,貨幣価値のたかいものを手にいれると幸せになるという経験をあまりに数多くかさねてきたので,パブロフの犬的条件反射が刷り込まれ,貨幣価値が高いと,本当は自分がそれを欲してなくても幸せを感じてしまうのである。だから,きらいとまでは言わないが,そんないに美味しいとも思わんものでも,高級品だとありがたがってしまう。ナカムラにとってはフグなんかそうだな。

そんな拝金主義はけしからん,原点にかえって,美味しいものをたべて幸せになるべきだ,と思わるかもしれないが,もう刷り込まれた条件反射はなかなか変えられるものではない。それに原点に帰ると,たべものの美味しいまずいだって怪しいもんじゃなかろうか? 多分,味覚というものは,もともと腐っているものや毒になるものを避けるために,進化の過程で発達してきたもので,美食を楽しむのは原点的目的からそれてるような気がする。たとえば,一度イクラをたべて食中毒になってから嫌いになって安全なイクラでも食べられなくなった,とかいうのは毒をさけるという目的からずれているのではなかろうか?

…などと,どーでもいいことをうだうだ考えながらペペロンチーノを食べるのが,一番損のような気もするな,と漠然と思いながら食事をするナカムラであった。